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予定調和は退屈で-「大人気行列店」には行きたくない理由-

まずは昨日の記事の一部再掲から。

いや、今の自分も、そりゃあ、後悔とか損とかは、むやみやたらにはしたくない。
でも、あまりにもそれを強力に思い「過ぎて」いると、それはそれでまた、肩に力が入り過ぎてしまう気もする

「無駄がない」ところからは「寄り道」も生まれにくいし、そうなると、自分の考えられる範囲をはみ出さない、言うなれば「予定調和」ばかりになって、「思いがけない新たな道」は開けていかない気もする。

これって実例を出してみれば、「そうか、そういうこともあるかもな。」と思っていただきやすい気がするので、本日はそこら辺の話から続けてみようかと。

旅先での自分の最大の関心事は概ね「どの店で飲食するか」なのだが。
(食い意地がはっている自分なもので、この実例パターンがやけに多い。笑)

【実例1】
そこで、ある旅に出かける際に、「損も失敗も後悔もしたくない」と考えたわけなのである。

で、出発前の段階で、ガイドブックやインターネット上で事前に徹底的に調べ上げて、「こことこことここを回って、もしこの店が運悪く入れなかった場合、その時は候補にはあげていたこちらの店を繰り上げて行くことにして……。」みたいに、どこで食べてどこでお茶するか(自分は喫茶店好きなので、「お茶する場所」も、すごーく大事)を、至極綿密に計画を立てた上で、行ってみたことがあった。

結果、入ったどの店も良かった。――食事も美味しく、お茶も美味しく。
しかし。
なーんか、物足りなかった。
――おかしい、お店に不満はなかったのに?
でも確実に思ったのである。
「いつもより、何か、どこか、つまらない。」と。

損も失敗も後悔もしたくない、つまり絶対「外したくない」という意識で、キッチリキチキチに予定を組んでみたら、そこには、本来自分が旅に求めている、「彷徨」であったり「揺蕩」であったり「迷い」「間」「勘」であったりが、なくなってしまった。

軽く予定くらい立ててはみる、けれど、迷ったり、さ迷ったり、揺れたり、ふと立ち止まったり、そしてひらめいたり、そんなことから思いがけない「余白」「遊び」が生まれたり、――結局、なんだかそういうのが、本来の自分は好きだったんだよなあ、と。
それらがなくなってしまうと、「あれ?今回の旅は何かが違うぞ?何かが欠けているぞ??」という感じになった。――つまりこれは、こうして一度なくしてみるまでは気づかなかった類の、極めて気づきにくい、が、でも何より大切な、旅の「面白み」とか「趣き」であったのだ。

で、「旅」だけでなく、もしかすると「人生」にもそういうものは、入れていったほうがよくないか?と。
言うなれば自分は、どこかでそれを求めている気がして。(「旅」も「人生」も、完全にユルユルなのは、多分好きではないけれど。)

――旅と人生は似ておりますからね。
(ありきたりなことをまた言ってしまう。笑)


【実例2】
今度は逆に、インターネット上での評判を、まったく見ないで行った店の話。
近隣の街(だけどそんなにしょっちゅうは行けない)に、美味しいというケーキ屋さんがあり。で、その「美味しい」という情報は、「知り合いからの口コミ」であった。
で、行ってみたら、やはりとても美味しかった。「あー、これは職人技だわ。(時間も限られているので)他の店に行くのを捨ててでも、こちらでケーキを食して正解だった。」と、思った。
で、ケーキとお茶を楽しんで満足したその後、次の目的地の場所をグーグルマップで調べようと開けた時に、ふと、目に飛び込んできたのである。
その店、やけに、星印で付けられるグーグル評価が低いのである。――自分は満足しているものだから、「どうしてだろう?」とやはり気になって、その評価の内容、口コミというやつをつい読んでみてしまった。
高い評価と低い評価と、真っ二つに分かれているほうの、低い評価(星が一つのもの)を、よくよく読んでみると、その全てが「接客」に対する評価であった。
書いてあること、「うんうん、確かに、ちょっとそれはわかるぞ?」という内容ではある。想像はつくというか。
たぶん基本的にお一人でやっていらっしゃる店なんだと思うのだが、何というかこう、「サービス業的やりとり」が、感覚として掴めていないというか、率直に言ってあまりお上手な方ではないのだろう、と、私も感じた。――中にはそれに気分を害され「悪い印象」を持ったりする方もいらっしゃるだろうなあ、というところも、想像はできた。
が、大事なのは「自分がどう感じるか」なのである。――私は元々、飲食店に、そこまで「愛想」「きめ細やかな気配り」みたいなものを求めていない。(「愛想や気配りなんかないほうが好ましい」ということではもちろんない。「愛想」「細やかな気配り」は特に必須条件ではない、というただそれだけである。また、「それはないだろう!」と感じる接客態度というものについては、私の中にも何かしらの基準はあるとは思う。が、それは「愛想」「細やかな気配り」の有無という点ではない、ということだ。)
例えばその口コミには、「一見客である自分には素っ気なく、常連客には愛想が良かった」と書かれていたのだが、……それは自然なことなのでは?と私なんかは思ってしまう。(たぶん、その書き込んだ人も、店主の接客の雰囲気に気を悪くされたからこそ、ささいな部分まで見方も厳しくなったのだと思うが。)

この話をまとめると、先にそのグーグルマップ評価の星の数を見なくてよかった、ということである。――グーグルマップの評価って、完全に信用しているわけではないけど(例えば、口コミの数が増えるほど、あるいはまた、これは意外なのだが、大衆的な店になるほど、星の数の評価は辛くなる傾向があると思う。だから一概に星の数だけでは店の評価は測れない気は元々している。しかし、)「ある程度までは、当てにはなる」と私は感じてはいるのだ。
なので、星の数だけを先に見ていたら、どちらに行くか迷っていた、別の喫茶店に私は行っていたと思う。

でも私は正直、「万人受け」する店より、そうではない店のほうに、魅力を感じてしまうタイプなのだ。――多分、「個人的な評価基準」つまり「飲食店に満足を感じるポイント」は、多くの人とは少しずれているのかもしれない。

畢竟、損とか失敗とか後悔とかをしないように入念に調べ上げた上で行く場所は、概ね「万人受け」に偏ると思う。
でも、「私が本当に見たい景色」「味わいたいもの」は、案外そこにはなかったりもする。


話を書き出しに戻すと。
「損」とか「無駄」とかを徹底的に省こうというそんな「意図」で固めてしまうと、うっかり「個人的なもの」――「理屈なく」好きなものや「わけもなく」したくなる衝動とかの類を、見過ごしてしまう気がしている。
早い話が、ガイドブックなどで事前に調査し知り尽くした上で入る店より、自分の勘だけを頼りに一か八かで飛び込んだ店のほうが、その「揺れ」というか「予期せぬこと」のせいかそれも含めてか思い出には残りやすい、みたいなことである。

で、そろそろ、タイトルに差し掛からないとね。(笑)

「行列ができる店」のその行列に並びたくない、というのは、一言で言えば、「私の本能」からである。(何ソレ?笑)
「限られた時間をそこに使いたくない」というのももちろんある。(特に旅先では、歩き続けて移動し続けることがとにかく自分は異様に好きなので、「じっと一所に立ち止まらされているのが嫌」というこれが「最大の理由」であるのは間違いはないのだ、――が、)
しかし、他にも理由はある。単に「並びたくないから」だけではない。
例えば、並ばなくていい平日を狙って、とかもあまりしたくない。

もう「多過ぎるお客さん」に対応するモードに切り替えられた店内飲食の店って、何て言うか、「疲弊」している感を、個人的には感じてしまうのである。(接客態度がおざなりになる、ということではなく。むしろ「良い接客をしよう」とそれでもしてしまう店のほうに、それを感じることのほうが多いかも?)
あと、「オートメーション」「流れ作業」感。――ある種、ファストフードやファミリーレストランなどのチェーン店に似た機械的な空気を感じてしまうというか。(もちろん、それは仕方のないことで、お店の人はまったく悪くありません。)
あと、人気店に押し寄せるお客も、どこか「殺伐として」「殺気立っている」ことが多いいうか。(言い過ぎですね。……いや、自分なんぞはどんな店においても飲食については「殺気立っている」ので、そもそも人の事は言えません。笑)

「私が個人的に飲食店に求めるもの、――それは「つかみどころのない」もので、それでもしいて言うならば「予期せぬ出会い」とも言えるかもしれないが、そんなものが、そこでは既に少し失われてしまっていることが多い。(店が悪いわけではなく。)」というのが、私が行列店を避ける理由なのである。

「一番」美味しいものを。
「最も」評価の高い、評判の良いところを。
「誰もが」知っている話題性のある店を。……等々、
「一番」「最も」「多くの人が」みたいなのは、もしかすると、今の自分にはあまり響かない要素になったのだと思う。
それよりかは、「私だけが見つけた」「私だけが好きなのかも?」みたいな理屈で割り切れない、大勢には対応しないものとか、「3番手、4番手」みたいな中途半端な位置にあるものとか、そういうのが、自分は好きなのかもしれない。

日々を、ふんわりとさすらい、たゆたい、さまよって、「自分の好きな旅」のようにして。
「自分が」美味しいと思うものを(食べ物飲み物だけに限らす)、一つ一つ、探して、見つけて、味わっていく。

これからの自分の人生は、そんなふうにしたいと思っている。