「支配されたい欲」を持つ人が世の中多くなった気もする
この記事のここの部分について。
ここから
ちょっと更に
発展させて書き足し。
「何でもかんでも
上から言われた通り」が
「ラク」で、
なんなら「幸せ」、
――そんな人が
最近増えている気がする。
人々を集団にしても、
「まとまりやすい」
「扱いやすい」
これは一見
「良いこと」にも見えるけど?
――そう、
この世の中に「善人」しかいないのなら、
それは、のどかで穏やかで、
「素晴らしい世界」になり得るけれど……。
「人が頭の中で考えている事なんて、
そんなの知らない方がいい。 」
っていうのは、確かに一理ある。
しかし。
何でもかんでも
「他者の頭の中も胸の内も
知らぬ存ぜぬ」だと、
目に見えないものだから
目に見えぬうちに、
たとえば、
「自分の考え」が浸食されていても、
それでは気づけなかったりもするわけだ。
「人の本当の気持ちを想像する」とか
「人の本当の心情を汲み取る」とか
そういう力って、
別に「思いやり」「やさしさ」「配慮」
といった事の為だけではなくて。
自分自身が誰かに (不本意に)
支配とかコントロールとか
されない為にも、
必要な力だと思う。
自分の中に
他者に対する
「支配欲」というものが皆無だから、
「被支配欲」(支配「されたい」欲)
というものについても、
感覚としてはうまく
パッと想像ができないのだけれど。
でも、想像してみる。
――例えば、子供の頃から
考えを誰かに縛られまくって
それに抵抗もしないでずっと来た人は、
今更自由になっても、
ただ心許ないだけなのかもしれない。
例えば、
「支配」されることで、
そういった「不安」から、
逃れられる「ような気になる」のかも?
でもなあ。
せめて、
自分の「考え」くらいは、
何者にも縛られずに、
自由にさせてやりたいけどなあ、
自分は。
(多少の「不安」と
引き換えになっても。)
「人を信じる」という事には、
怖い側面もあるという事だ。
そんな「信じきって」しまわなくても、
いや、むしろ、
「疑う余地」を互いに許容できる方が、
(「疑う」からこそ「確認作業」も
し合えるわけだし、)
「本物の」信頼関係を
構築できる気もする。
――ま、
「既に親密な個人対個人」では、
今更そこまで考えなくても
いいかもしれないが。
(ケースバイケースですよね、
さすがにそんなのはね。)
しかし、
「社会に対して」
「政治に対して」
「(そんなに親しくない)他者に対して」
ならば、
「疑う作業(確認作業)」を
手順として何も挟まずに、
(何故かいきなり)
「全幅の信頼」を寄せる感じは、
ちょっと
「生きていく上で手抜き」という気が
個人的にはしないでもない。
(と、特に最近になって、
しみじみと
思い始めている自分なのである。)