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欲に執着すると逆に欲に取り憑かれる

「欲」こそ清々しいものにしておかないと、せっかくの「楽しい」すら「楽しい」にならんのでは?という話。


「よいこと」「楽しいこと」は、待っていても、なかなか向こうから勝手にやってきてくれる感じでもないのかもしれないな?と、ふと思ったのである。
むしろこちらからどんどんお迎えにいってさしあげる、そんな精神でないと、と。
でも、迎えに行くその道程ですでに楽しい気分が始まっているわけだから、これまたいいんじゃないかね?――むしろこれこそが「楽しい」という気分の本質なんじゃねえの?ともまた思ったりもして。

「とにかく楽しく」
「意地でも楽しく」
「何がなんでも楽しく」
――くらいの精神でも別にかまわないのかもしれない。
でもこれをその上、雲とか風とか光のように、ふわぁ~っと自然とやれたら上出来。――間違っても眉間にシワ寄せてこれやっちゃダメなんでしょうな。(特に他人と比べて「アイツより楽しくなくちゃ!」みたいなのは台無し。笑)



聖者でも修行僧でも自分はないのだから、「欲」が全然ないのは、少しつまらないと思うし、生きていく上で自分自身にどこか勢いもつけにくい。
しかし、くれぐれも「欲」と「不満」は、くっつけてしまわないうように気をつけたほうがいい
んだろうなあ、と、――自分で言ってはみるものの。
「欲」と「不満」って、割と親和性が高くてうっかりくっつけてしまうんだよなあああっ!(ハイ、自戒です。笑)

「不満」の何が問題って、だいたいのものが「重い」んだ、これが。だからそれを背負い込んでしまうと、人から軽やかさが失われるのだ。

つまり、欲を持って、別に、ガツガツ進めばいいし、ドンドン行けばいいし、バンバン当たればいいし、でも、その欲の対象にこの手が届かないと知った時は、さっと翻って身を引く「身軽さ」も同時に用意しておきたい、と。
サラッと、スパッと、カラッといつでもしていたいものだな、と自分は思うわけだ。(今回の記事は擬音多め。今回は特に「ガーッ」と書いているもので。笑)
そういう「身軽」な自分が自分で好きだし、そういう自分こそ居心地がいいから、である。――自分が居る「自分の居心地」は、自分が居やすいように自分が整えねば、誰も自分の(特に「心というもの」の)「居心地の好み」なんか知らないし整えてはくれないからな!(笑)


欲に「執着する」と逆に、今度は欲に「執着される」「取り憑かれる」、と、感じたのだ。
何事も、粘着質になりたくない。自分の場合は、特にダメみたいだ。――そうなると、まず、清々しさがなくなってしまうから。
欲についてはとりわけ「清々しく」ってのが、重要なキーワードになりそうだ。
「清々しい欲」「卑しくない欲」こそが、「楽しい」を連れてきてくれるような気もまたするのである。


(……という、この記事の続きとして書いてみました、よろしければこちらも!)