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「心」を老いさせているのは自分なのか

自分より「少しだけ」上の世代の方の、健康状態についての便りもまた、
最近色々と自分の元にも届くようになり。

それにつけても、「夢中になれるもの」がある人は、
どんな身体の状況の時も強いかもなあ、なんてことを思う。
「夢中になれるもの」は
ないよりあったほうが断然いい説を唱えたい自分である。
今そういうものを持っているのなら、
それが多少重たくても死守するべきでは?とすら思う。
――だって、一度手放してしまうと、それは鮮度を失い腐り始めて、
元には戻らないという場合も、多い気がするので。


脳の機能的な衰えや身体の老いはどうしたって避けられないけれど、
もしかすると、心にだけは、
老いとか衰えとか来ないようにできる場合もあるんじゃ?
なんて感じるところもある。
で、「夢中になる」ということの中に、そのヒントがあるのでは?と。

もちろん、身体と心は連動している部分は大きい。
なので、「負の連鎖」みたいなことが起こってしまうこともよくある。
けれども、その「負」の方向に傾きそうな時、
「夢中になれるもの」が、
そこを立て直してくれることも大いにあるというように、私には思える。
「負」は「夢中」の邪魔にしかならないから、
強い「夢中」が、「負」を払拭しようと力を与えてくれる、ということは、
誰でも想像に難くないのではないだろうか。――というか、
多くの人にそういう「心当たり」がこれまでにあるのではないか、
と、私は思うのだが?(いかがですか?)

生活していくなかで、皆、諸事情を抱えてはいるが、
それを踏まえてみてもやはり、
「夢中になれるもの」は、なるべくなら殺さないほうがいい。
――長い目で見たら尚更、である。

「夢中になれる何か」――そういう自分では何の気なしに手元に来ていた
「当たり前」に思える存在ほど、
「不可抗力の運命的」且つ「かけがえのない」「自分だけの」
一つの無形の財産だったりするではないかな、と私は思うのだ。

そんな「形もなく」「数えたり測ったりもできない」財産こそ、
きっと、「手放さない」ほうがいいのだ。
――自分でも気づかぬ間に、
(確かに手元には置いておいたはずでも、)
容易く見失ってしまいがちだからだ。