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『朝闇(あさやみ)』が消えていく

昨日、「今の仕事に就く前までは超朝型人間だった」と書いたのですが、その「朝型であること」についても14年前のブログで言及しておりましたので。

本日は2007年9月23日、タイトル『朝闇(あさやみ)』から一部抜粋。





「夕闇」はあっても、「朝闇」という言葉はない。
(というのを書き出しにしたかったので、ちゃんと辞典検索もしました。)
不思議といえば、不思議。

※2021年追記:
ちなみに「暁闇」(あかつきやみ)という言葉はあるようですね。

あかつき‐やみ【暁闇】
〘名〙 明け方、月がなく、あたりが暗いこと。また、そのころ。陰暦で、一日から一四日ごろまでの夜明け方をいう。あかときやみ。


部屋の西側にうずくまり停滞している「影」は、
朝の世界の中では、もはや「闇」ではないのか。


不思議と、朝の光の中では、「闇」を抱えにくい。
「黒い言葉」も吐き出しにくいし、
「汚れた心」も、一時的にきれいになっている気がする。

不思議なのが、街中。
人が少ないせいもあるだろうけれど、
「光が、一日に一度、清めてくれている。」という印象を受ける。

「清める」という事自体が、
日常の中にありながら、本来、
人間の力など介在しない自然のものの力の中に存在するのだなあ、
と感じる。

同じくゴミだらけの街中だったとしても、清められている。
というか、ゴミが「露骨に見苦しいもの」として、
きちんと目につくようになる気がする。


ここ何年か、
朝の存在を、しっかり認識する生活習慣に、はまっている。
つまり早起き人間になったのである。(趣味で。)

日の入りの時間だけではなく、日の出の時間の変化を感じるのも、
「自然不足」のこの日常において、
無理やり、バイオリズムをつくりあげるのに、
(無理矢理つくりあげるバイオリズムってあるのか??)
役立っているような気も、
「しないでもないこともないかもしれない」?
(――もしかすると気休めかも?という事ですね。笑)



本当は、「朝闇」は存在する。

たまに、明け方の光の中でも、
自分の中の「闇」について、考え込んでいる時もある。
(なんていって、ごくたまーに、ですが。
大概は、「ぼーっ」としているだけなので。笑)

人の胸の内には、
本当は、真っ黒な「闇」が、
何時でも関係なく、ずっと、あるのだろう。

しかし、だからこそ、
一瞬だけ、
「闇」というものの概念や、「魔」の存在しない時間帯が、
一日一度、欲しかったのだと思います。


てなわけで、2021年に戻ってまいりまして。

今朝は久しぶりに早起きをして、家の近所を歩いてきました。
うーん、やっぱり朝はいい。とくに多くの人が動き出す前の、早い朝。
早い朝の光や空気の中にいるだけで、「生まれ変わる」感がある。
細胞レベルで、ないしは、精神レベルで。

ちなみに、以下すべて、今朝撮った写真です。
(やっぱり朝は、人があまり歩いていなくていいです!笑)


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秋もいろんな花が街なかに咲いていてありがたいです。――もはや街自体が植物園とも思えてくるくらい。
以下も全て、今朝、小一時間くらい歩いている間に撮った花々でございます!
不思議なもので、秋に咲く花は、花の色も心なしか秋色。
(まだ咲き残っている夏の花もところどころ混ざっておりますが。笑 でもそれはそれで趣深い色。)

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――というか、あれ?今日ってもしかして、祝日で世の中はお休み?
……。
何でうちの職場は、ことごとく祝日が休みにならないのでしょうか?
(知らないよ。笑)

私も今日をお祝いし(てこのまま休み)たい!!!(笑)