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「暴力的なもの」と「陥れる嘘」が嫌い

一つ前の記事では、下記のような結論で締めたのであるが。

自分自身が今認識しているこの世界は、ある意味、「鏡」でできているともいえる気がする。
そこには必ず、その真ん中に、自分の姿が、その心が、既に映しこまれているはずだから、である。

ではでは。
自分は、そもそもどういう世界を嫌っているのだろう?と。
つまり、「そういう世界が嫌なら、そういう自分にまずならない、ということが肝要である。」という、前回の結論からまた話を続けてみようかと思う。

――で、シンプルにまとめた結果が、今回のタイトルになるわけである。

逆に言うと、それ以外のことは、実は自分はそこまで気にもならないのだ。

例えば、
強欲も、無知も、非情も、嫉妬も、依存も、執着も、怠惰も、虚栄心も、無関心も、不寛容も、不真面目も、自己中心的思考も、後ろ向き・消極的思考も、――なんなら「恥知らず」だって「人の心がわからない」だって、――つまるところ何でも、他人様のそれについては。
ただ「単にそれだけ、そこ止まり」だったら、(「好ましい」とは別に思わんし、また「好んで自分もそうなりたい!」とももちろん思わんが、)「人間らしさ」みたいな解釈で、自分は、少くとも最後には笑って受け流せる気がするのである。「アハハ、あるかも~?自分にもそんなところ~。」てな具合である。
が、
これらによって、いや、よらずともだが、他人に対して意図的に「刃を向ける」様子を、――「傷つける」「貶める」「陥れる」を目論むみたいなことを――見受けてしまうと、途端に私の「センサー」は反応し出すのである。「何してやがんだ、コノヤロー、気に入らん!」と。
ここはどうも「意図的に」というところがとりわけ私の神経を刺激するポイントのようで。――つまるところ、私は「悪意」というものがとにかく嫌いで、且つそれは私にとって「いつまでも慣れることがどうしてもできない」もののようなのである。(良くも悪くもそういうことに「慣れ合って」いる人も、――世の中とはそういうもんだから、と、例えばその悪意のキャッチボールみたいなことをホイホイできるような、暴力的なものへの「耐性が付いている」人も、割といるように、私には見受けられる。)

あるいは、タイトルにあるように、「陥れる嘘」が私は嫌いなのであるが、「ただの嘘」ならつかれても、別に「まあ、いいか」と結局はなる自分なのである。――「つい悪気なく咄嗟のその場しのぎで」とか「良かれと思って」とか、そういう嘘なら、(別にもちろん好きではないし、そういう嘘すらなければないに越したことはないと思うタイプの自分であるが、)「どうしても許したくない」となることはまずない。

では、自分がどうしても嫌いな「悪意」、――更に言い換えてみてその「他人に向けられた暴力的企み」、とは、もっと具体的に言うと何か。
タイトルには「暴力的なものが嫌い」と端的に書いたが、しかし暴力的でもただの「描写」つまりフィクションの世界ならば、私はそれについて苛立ちを覚えることはまずない。(ま、もちろん、生々しすぎて思わず目を背ける、みたいなことはあり得るけれど、「そんな描写はなくしてしまえばいい」とまでは全く思わない。)
「描写」はあくまで「描写」でしかないからだ。
つまり、そこに、具体的に「現実世界の誰か」を傷つけようとか貶めようとか、そういう「意図」つまり「介在される悪意」が認められなければ、私にとってそれは「暴力的なもの」にはならないのだと思う。

※とはいえ、無論、「悪意とはなんぞや」「暴力とは何ぞや」の、その答えは、人によってバラけるでしょうし、――例えば「悪気がなければ何をやってもいいのか」みたいなこととか、――厳密な一致はし得ないものでしょうけれどね。


「自分がされたら嫌なこと、あるいはこれまでにされて嫌だったことを、人にはしない、つまりそれをまるで悪意のキャッチボールかのように延々と、現実の人と人との間で、繰り返さない世界であってほしい。」
――ホントに当たり前のありきたりなことをまとめにしてしまったけど、要はこれなんだよなあ。

誰だって、自分の精神的あるいは身体的テリトリーを、破壊されたら、嫌ですよね?――これを好む人は、さすがにいないと思うんだけど??
だから自分は、「それだけがどうしても」、本当に、許容できないし、なのでそれらを、――「暴力的・攻撃的なもの」や「人を陥れる嘘」を――徹底的に、理屈抜きで、慣れ合ったりせず、どこまででも、いついかなる時でも場所でも場合でも、嫌う世の中であってほしいと願っているのだと思う。
――で、とりあえず、自分の手元にその「ボール」が来たら、なるべく触れず、少なくとも持ち続けず、で、どこにも投げ返さず、棄てる(土に埋めてしまう感じですね)、と。

とりあえず今回はここまでです!

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