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「日にち薬」-効くものと効かぬものと-

災害とか事故とか病気とか、
そういった「不運」は常に、
「経過はしていく」または
場合によっては遭遇した時点からその後はもう
(たとえほんの少しずつであっても、それでも)
遠ざかっていく「過去のこと」になったりもしてくれる。


しかし、自分自身の心が生み出す「感情」や「心情」、――たとえば、
妬みだの恨みだの怒りだの憎しみだの悔いだのは、
自分が掴んで離さない以上、
そのカタチをとどめたまま、
いつまでも「過去」になってくれなかったりする。
つまり
(気持ちの良い感情ならいいけど、上に並べた類のものは違うので、
そうなると、)それは、
「不運」の真ん中に、不自然に時間を堰き止めてまで、
いつまでも「自分が自分を」押し込めとどめている状態である。

なので、私は、
前者の「やってくる不運」と、
後者の「自らの内側が生み出し続ける不運」とを、
意識の上で分けるようにしている。
――そのほうが、心の中が清々もするので。

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「日にち薬」という言葉があるけれど。

ひにち‐ぐすり【日日薬】
月日の経過が薬代わりとなること。「骨折には日日薬が一番だ」「日日薬で失恋から立ち直る」
出典 小学館デジタル大辞泉

前者には、「日にち薬」は、確かな効き目をもたらすと思うのだ。
「出来事」なら、
日が経つにつれて、記憶から遠ざかったり、
遠ざからなくても、刻一刻と、
それをとりまく「物事」のほうには少なくとも必ず何かしら
変化があるものだから。
(こう考えると、「変化がある」って、大事なことですよね。)

しかし、後者の場合はどうだろう。
「自分が」気の持ちようを変えていかないことには
「いつまでも変わっていかない不運」といえるのではないだろうか。
――というか、そもそも、
「気持ち」みたいな、本来不定形のものが、
ずっと一所に留まって、形も向きも変わらないという、
そのこと自体が実は、それだけで既に、
相当な「窮屈」であったり「不快」であったりするものではないか、
とも私は思う。

――そう、何故か我々は、
「ずっと変わらない」前提で、
あらゆる物事を捉えて考え扱おうとすることもまた多い気がするのだ。

が、しかし、(「概念上」ではまだあり得ても、)
「ずっと変わらない」なんて「不自然」なものは、
そもそも存在自体し得ないのではないだろうか。

「心残り」という言葉は確かにあるけれど。
でも、それにもまた、
「永遠に」という意までは特に予めは含まれてはいないはずだ。
心でも、いや、有形無形問わず何でも、
時間を経てもそこに変わることなくいつまでも「残っている」のは、
やはり不自然なことなのではないかと思う。

つまり、
「不快な感情」「不運と向き合っている心」
これらが何だかずーっと長い期間、
悪い「癖」みたいに、
自分の中で「固定」されて居座ってしまっているなあ、と感じるのならば、
自分で意識的に「動かす」「変化させる」を
したほうがいいと思うのだ。
そうしないと、そのうち、
ずっと同じ姿勢でいてますます脚がしびれてくるみたいに、
「動かしたいのだが、あれ? もううまく動かせななくなっている?」
と、なってしまうこともある気がする。
――それは「自分の感情や心であるにもかかわらず」、である。


そんなふうに、自分の心や感情を、
鎖につないで、掴んで放さず、
いつもおんなじ狭い場所(それもあまり快適とは言えない)に
閉じ込めて、――更にはいずれ動かしにくくもしているのは、
案外、他の何でもなく、
「自分自身の手」だったりする、ということである。
それは言うなれば、自分の心や感情に対して「動くな」と、――つまり、
「恨みを忘れてはいけない」とか、
「悔やみ続けるべきだ」とか、
「こだわれ」とか「目をそらすな」とか「許せるわけがなかろう」とか、
そんな呪縛を「自分が」投げ続けている、ということだ。
自然と、忘れていこうとしている、
あるいは、姿勢を変えようとしている、
そんな心や感情を、
結局「自意識の手」が縛り続けているのである。

心や感情を、まずは自由に。
――最終的にそれができるのは、
なかなかどうして、それも結局はやはり、
自分自身しかいない、とも私は思う。
(あるいはこれは、
「自分でならばこそ、それができるはず。」
という言い方もまたできるだろう。)



理屈なんかいらない。
むしろ考え込めば考え込むほど、できなくなりそうなので。

ただただ、「手を離してしまえ」と思う。
新しい今日の
(そう、繰り返すものだから当たり前になって忘れてしまいがちだが、
「今日」はなんと毎日「新しい」のだ!
外の空気の中に、手を伸ばして、
ぱっ、と、流してしまえ、と、思う。


そしてそれは「今日こそ」でも別にいいのだと思う。
「離そう」「離してみようか」と
思い立ったその「今日」が、
その指を、その掌を、開く時なのだと思う。

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そんなことを考えてみるにつけ。

「心」や「感情」や「気持ち」は、
常にできるだけ「放し飼い」がいい気もする。

それらを「固定」してしまっている時というのは
自ずと例えば「自分の感情はこっちに向いているはずだ」と決めつけて
その首根っこをわざわざ押さえ付けてしまっている状態なのだから、
それもまたある種の、(いや、むしろ文字通りの、)
「自分で自分の首を絞めている」
という苦しみにもなりかねないと思うのだ。
――その場合更に、タチが悪いケースとして思い浮かぶのは、
自分でわざわざ自分を苦しくしているものだから、
「そういうふうにしてしまう自分」というものを否定したくなくて、
「本当は苦しい」ということを、
無視して無感覚なフリをする方向にいってしまうことである。

というわけで、案外、
自分を直接的に「今現在という瞬間の中で」苦しめているのは
実は誰か(例えば過去に存在していた)他人ではなく、
突き詰めれば「今現在の自分自身」ということは、よくあることだと思う


やはり、
「その、握りしめているものなんか、手離してしまえ、離すべきだ。」
と、私は思う。

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「心」とか「感情」なんて、場合によっては、
その持ち主である「自分自身」からすらも解き放って、
「あれ? 気づけばあっちのほうを向いているなんて?」
てな感じで、
変わり続ける外側の何かにすぐにつられてしまって
勝手気ままになりがちなくらいが、
いい塩梅のような気がしている。

もはや、自分の心や感情であっても、
自分とは別個の生き物であるくらいに。

そうすれば自然と、
もし仮に自分自身が
何かの理屈めいたものににがんじがらめになったりして
立ち止まっていても、
心や感情はきっと、
自分なんかはとっとと置き去りにしてくれて、
「現在」「この瞬間」に先に追いつこうとするだろうし、
そして、毎日新しくなる「今日という日」をつかまえ
それにシンクロしようとし始めるのではないかな?

だから自分は、
「心が勝手に動き出す」を、もっと大事にしたい。

今年からは、
自分のこのせっまーい、心や頭の中になど置いておかずに、
空気とか、あるいは雲とか風とかのように、
「心」を、
ふわーっと自由に漂わせてしまおうと思っている。
自分の心に、自分という人間からの「自立」を求めるのだ! 笑)

せっかく、毎日毎日、
まっさらなシャツやシーツのような
「新しい今日」がここに届けられているのであるから。


――今回の話を、最後にまとめてしまえば。

「心について、それを一旦自由にできたならば、
その後は自然に放っておいたほうが、
『日にち薬』は効きやすくなることが多いのでは?」

ということでした。

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余談ですけど。
大雪って、大変なのですが、
偶になら、
世界が真っ新になっていいものですね。
(そう、「たまーになら」、ですが。笑)