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「完璧」とは「自己満足」のことである

「完璧」を目指すのはいいが、しかしそこにあるのは概ね「完璧」などでは実はない。――ということを、まずは肝に銘じておきたいと思ったのである。

そんな、人から見ると「?」な(このままでは言葉足らずな)「自論」の、その「結論」をまず先に言ってしまえば。
『「完璧」とは、ある種の「自己満足」である。』――となる。

で。
誤解されるといけないので、これも先に言っておいてしまうのだけれど、「自己満足」も「満足」のうちなのだから、それを目指したり得たりすることは、大いに結構、何なら自分の気持ちを明るく出来たり張り合いを与えてくれたりすることもある素敵なものだとすら私は思っている。――私はこれからも、「自己満足上等!」「似非完璧主義最高!」で行くつもりである。

さて、話を戻して。
では何故、「完璧」とは「自己満足」の姿を変えたものだと私は考えるのか。

例えば。
私がある音楽アーティストのファンになり、その作品をコンプリートしたとする。
私「わーい。シングルもアルバムもやっと全作品揃えられた~。これで完璧だ~。」
すると、更なる強者が現れて、「私にとっての」コンプリートを見て、こう言うのである。
強者「でもそれ、初回盤じゃないものが混ざっているよね?」
……。
そして数か月後。
私「わーい、初回盤が存在するものは、全て初回盤で揃えた! 今度こそ完璧だ! コンプリートだ~!!」
すると再び更なる強者が現れて、私の「今度こそコンプリート」をしげしげと眺めてこう言うのである。
強者「そっかそっかー。でもこれのうちいくつかは、中古盤だよね? 新品で買ったなら付いているはずの帯とか無くなっているし。それにここからここまでのアルバムは、アナログも後にリリースされているんだよ? 曲順と、ジャケット写真も、そっちは違うんだよね。」
……。
私「(うーん。「完璧」を「厳密に」突き詰めだすとどこまでもキリがないなあ。)(……楽しさより面倒くささのほうが勝ってきたな。)(……てか、なんかツラくなってきた。)」
※フィクションです。(でも似たような経験はある。笑)

――という、この例を挙げてつまり私が書きたかったのは。
「完璧」というものは、本来元から、人類共通の一つだけ存在する「絶対的なもの」では実はなくて、所詮自分、あるいは誰かが、「便宜的に後から設定」したものでしかないということなのである。
コンパスを使って描いた円を、「正円」と見る人もいれば、ミリ単位でのズレを見つけて「正円になり切れていない円」と指摘する人もいるだろう。――その人の採用する尺度によって、つまり「人によって」、完璧のその概念や定義は、また変わってしまいもする。
言い換えれば、「完璧」というものほど、案外、(「完璧」などと自称しながらそいつは、)人、あるいは時と場合によって、そのゴールや評価などの線引きの位置はバラけているものなのかもしれないぞ?と。一見「厳密さ」と密接なようでいて、むしろ相反するものなのかもしれない、「完璧」というヤツは。――つまり「完璧」を名乗る割には、「厳密さ」をどこかの時点からは無視せざるを得ない、という矛盾を、自ずとはらまざるを得ないものなのである。
と、なると、「完璧」というものは、人が変われば当然その姿は移ろうものであり、ならば「自分にとっての完璧というものだって移ろったって別にかまわないもの」ともまたいえるのかもしれない。――「完璧」というものであるにもかかわらず。いや、――「完璧」というものだからこその「曖昧さ」は、そこには必然的に含まれてしまう、含まれていい、といえるのではないだろうか。


で、個人的なものは言うまでもなく、例えば仕事上のものですら、「目指すべき完璧」は、自分の能力と、そして気力・体力(これ割と重要な要素です)を鑑みた上で、「何ならこっそり自分で設定し調整したってかまわない」とも私は思う。――何故なら前述してきた通り、完璧なんて、ただの「概念」「変化してしまう定義」(つまり「定義」であるのに定まりにくい)でしかないとも言えるからである。
それに、プライベートの趣味とは違って仕事上のものならむしろ、「自分には到底できないかもしれない完璧」なんて、そもそも目標として「設定」しちゃいけないような気もする。仕事の上で「絶対完璧にやらねばならない」ものについて出来ない可能性があるなら、「完璧にはできないかもしれない」と予め(暗黙の了解形式でもいいから)(もちろん関係者に向けてだけでなく「自分で自分にも」)表明し許諾を得ておくべきである。それもまた「仕事」というものの一部と言えるであろう。それ以前に、できないかもしれない位置に、「仕事における完璧というもの」を「設定」することは、後々いろんな意味での「混乱」が生じる、その元をわざわざ自ら作っている気すらしてしまう。


ところで。
そうは言いながらも、大昔の私は割と、完璧主義「的」なところもあった。――ある時は、できるできないを鑑みる手前で。またある時は、ハードルを上げられるだけ高く上げてしまって。――その上で「完璧とは必ず目指すべきもの」と思ってしまう「習性」が、かつての私にはあったのだ。
そうそう、ある人の作品を集め出すとすぐ、ちょっと大変でもコンプリート目指しちゃうようなことも多かったなあ。(そこ?笑)――って、まあ、単なる趣味の物品収集なら、そんなもんはこれまで通りの自分の好き勝手のさじ加減で、これからもやっていくんでしょうけどね。
ただ、それ以外のことで、「ままならないこと」にまで、「(実は自分や誰かが思い描き自ら設定しているだけの)完璧」を目指すのは、やめにしようかな、という気持ちに今はなっている。
つまり、「到底届かない」「達成できる目途が一向につかない」ような「完璧」を目指すよりも、「到達できるかな?」と予感できるような範囲までに設定した完璧を、これからは目指すことにしていこうと思っている。――いやこれは単純に、「この設定の仕方での完璧主義」が、一番私の性格にあっているから、というそれだけのことなのであるが。
(それでもまだどこか「完璧主義」をやりたがる自分を知っているので。――「習性」って怖いですね。笑)
(それにしても、何かにつけて「完璧であるのがとにかく最良な事なのだ」という感覚や思い込みになってしまうのもまた、幼少期からの「擦り込み」によるところも大きいのではないかなあ、と思う。――閑話休題。)
だって、「完璧にできない!」と挫けている時間が、自分の場合、なんとも無意味なままになってしまいがちだから。早い話が、「達成しました!」という満足感がないまま延々と何回も挫けて、しょっちゅう鬱々とはあんまりしていたくないのである。(偶にならまだいいけれども。)「限られた」時間とエネルギーが、もったいないから。
そして、もちろんこれは、個人的に「そうするのが自分には合っている」と感じているというだけの話なので、これとは違う考え方や感じ方の人もいるだろうだから、――例えば「いや、自分は、更により高いハードルを設定して、自分には自分でどこまでも厳しくして、到達できるかわからないような完璧を目指す方が、張り合いがあって燃えるからいいのだ。むしろそうでないとダメになってしまう。」みたいな人もまたいるだろうから、「完璧主義」については、その人の性格や特性や気力体力(繰り返すがこれは重要)と照らし合わせて向き合い方を決めるのでいいのだともまた思う。
まとめると、「一口に完璧主義といっても、そんなの人それぞれだよね? それでいいよね?」ということである。

また、「完璧」を目指すことには、利点もあるが、欠点もあると私は感じている。
例えば、細かいことを気にし出すとかかってしまう類のブレーキってあると思うのだが、完璧を目指す時、それはかかりやすくなるものだと思う。
時間もエネルギーも有限な中で、「今、完璧にこだわるあまり、チマチマしたことを気にして、あちこちブレーキ掛かっているようだけど、本当にこれ、自分的にはOKなの? ――とにかく進んでみない事にはわからないこともあるのに? それに、最後に時間切れになったりする可能性もあるんじゃないの?」ということが、「完璧」を目指している途中で、これまでの経験則から浮かんでしまうことも最近多い。

そして、足りていないからこそ、人はそれを埋めようとして、より深く考えたり更に工夫して動き出したりもするのだから、「何かが足りない」「一部が欠けている」状態もまた、それはそれなりの利点・長所があるのだとも思えてくる。そんな今日この頃の自分なのである。――つまり、「完璧」は目指してもいいが、「完璧ではない」というその状態を「気に病む」必要まではどう考えてもないのだ、と。――だって、そこまでいってしまったら、何だか「完璧」というその「漠然とした概念」の使い方を失敗しているような気すらしてしまうから。「完璧ではない」ことで鬱々としてしまったら、そうしたら更にまた目標として設定したその「完璧」からは遠ざかる場合も多いのでは?と。
私にとっての、これから目指していこうと考えている「(似非)完璧主義」の概要は、こんな「身と心の軽さを失わないように配慮した」感じになりそうである。

また、こんなふうにも私は思う。
「0.1ミリの狂いもない、花びらは全て同じ大きさで一枚も欠けることなく、茎は曲がることなく定規で当てたように一直線で、葉はいずれもピッタリ同じ形」みたいな花がもしあったら、それって工場で機械的に生産された「造花」と何ら変わりなくないか?と。――私はそんな花のほうが好きだったっけ?と。
よくよく考えてみると私は、「不揃いなもの」の持つ、「独自性」とか「偶然性」とか「不規則性」こそを、もしかすると愛していたのではないか?と。
(例えば自然界に存在するものの形状とか、――空の浮雲然り、岸に打ち寄せる波然り、地面や河原の石然り、森の木々の枝や幹然り――それらのものが、もしピタリと全て同じ大きさ同じ色同じ形で綺麗に揃えられていたら、かえってゾーッと来るような不気味さを感じると思う。)
なので、その眼差しを、自分自身にも、そして、自分の「欠けているものも多い」「不揃いな」人生にも、これからは向けてみようと思うのである。
なんとなくそのほうが、自分の場合は、縛りが少なくて様々なものが生き生きと動き出す気もするからである。――趣味の事でも、生活の事でも、仕事でも。

やはり「造花」より「生花」が、――それが自ずと纏う自由さと自然さが、――私は好きだから、である。
思いがけない魅力的な光は、ツンツルテンに磨かれた「完璧さ」より、欠けたり砕けたりしたものが放つ不規則な乱反射のほうに、宿ることのほうが多い気もするしね。

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