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「自分は上手くいくにきまっている」と思いこむ効用

人を妬ましく思うことについては、先にこの記事でも触れて書いてみたわけであるが。

「自分は、ああなりたいのだ」という「目標設定」までなら、結構なことだと思うのだが。

それが「羨望」になり、いずれ「嫉妬」にまで発展しては、これ、よろしくないわけである。
「他人の人生は生きられない」のであるからして。
せいぜい「うらやましい」くらいまで、――それが負の感情に変わる手前までで、なんとか止めおきたいところである。

「妬ましい」になったら、そろそろブレーキが必要だ。

すべての感情――怒りや哀しみといった負の感情も含めて――「それにはそれなりの意味がある」という、私は意見の持ち主なのであるが。

さて、では。

そもそも、「妬む」感情に、元々意味はあるのだろうか。
――何故人を妬んでしまうのか、ということである。

その気持ちは、どこから?

妬めばその人になれたり近づけたりするかというと、そんなこともない。
それどころか、ますます自分のほうが荒れて、顔や心の「人相」が悪くなるだけだし。
――つまり、「良い結果」は、そもそもあまりもたらさないはずなのだが?

まあ、恋敵とか? あるいは、同じ劇団で一つの役を争っている、とか?――そういった「少女マンガ的世界」なら、「アリ」かもしれないが。(笑)

そもそも、妬んでその「呪い」が誰かに届いたところで、その分、自分の元に利が来るという状況は、ほとんどないのではないだろうか。
――それなのに、何故人は「妬む」のだろう?!

「妬み」はある種の「闘争心」みたいなもので、例えば、限られた富、土地や衣食住を人と奪い合っていたような、前時代の名残が遺伝子レベルの記憶として、残っている、のかもしれない。――今はそんな時代でもなかろうに。

もう飢餓を心配する時代でもないのに、「太ろう太ろう」「蓄えよう蓄えよう」とする、私の「前時代体質」的なこのカラダのように、それはアホである。
――同じくらいの歳で同じくらい食べていても、あの子は全然太らないのにっ!(妬んでます。笑)

と、いうわけで、「妬み」というものが、誰かを「引きずり下ろしたい」という感情なのだとしたら、「前時代的」で、つまりそれは「古い」のである。
――私も、「古い」と言われて、いちいち胸にトゲ刺さる年頃になってまいりましたが。(笑)

それでも止められぬ「嫉妬」は、もうこうなったら、「何よあの子!」の体で、大映テレビ時代の賀来千香子や高木美保や高橋ひとみのように、「美しき敵役」になったつもりで、面白がるしかない。
(って、ごく一部の人にしかわからない喩えをしがち。)

※画像はイメージです。

なあなあ?

「誰かを妬む」なんてやめようや。

人と一つのもの、あるいは限られたものを奪い合い闘いあわなくてもよかろう。――いくらでも選択肢はあるし、そこまで「モノのない時代」でもなかろうに。
そんなのベタベタの粘着質だし、柔軟性に欠けていてケガの元だし、そして、そういう心持ちこそが「貧しい」というものぞ。

――な~んて。
ふむふむ。なるほどなるほどなるほどね。

そ~んなことは、解っている。
よ~く、よ~く、よぉ~~く、解っている。

……。

……そんな「わかりきった理屈」で止められるなら、誰も苦労せんわっ!(笑)

そうなのである、それでも「遺伝子記憶レベル」で、「貧しい」「卑しい」「飢餓状態」の、自分の精神なのである。
――人を妬む気持ちを、もう止められないのッ! どうしようもないのッ!(笑)

まあ、一言で言えば我ながら「欲深い」んだろうと思うけど(笑)、これもまたそういう人間性なんだから、今更仕方ない。

やはり「どこか満たされてない」気持ちが、「嫉妬」の感情を生むんだろうなあ。
――何一つ不満なく何不自由なく生きている人は、あんまり、人を妬んだりしないだろうしなあ。

(完全に想像。笑)

それならせめて、こうしてみようか?
と、このたび、ふと、思ったことがある。

「楽観主義」を、極めてみてはどうか、と。

つまり、
「私は絶対この先、うまくいくにきまっている。」
「私はこれからますます、幸せになるにきまっている。」
と、徹底的に「信じこむ」ようにする。

――うむ。

ポイントとしては、あまりそこに「具体例」を思い浮かべないことかもしれない。
つまり、
「うまくいくんだから、その内容は、天におまかせいたします。」
ということである。
言うなれば、「なんとなく」「漠然と」させておく、ということである。
――運命が勝手に、「自分でも思いもよらなかったかもしれない」良い方向へと、運んでいってくれるような、そんなイメージ。

だって、「こういうのこそが私にとっての幸せなのだ」という、「明確なイメージ」を持てば持つほど、「そこからは外れる」可能性が出てくるわけだから。

だから「○○になって見返す」とか、「○○を手に入れる」とか、あとは「○○よりも」という「比較対象」とか、そういう具体的なものを思い描いたり設定したりするのは、避けたほうがいい。

――いかがだろう?
この「今後うまくいくと思い込み信じ込むこと」と、上記の「それを遂行する際の注意点」は、なかなかどうして、いいんじゃないかなあ、と私は思うのだが??


そして、こういう「漠然モノ」の時こそ、「神頼み」をやってみてもいいような気もする。

「このお守りを持っていれば、私は絶対、最終的には大丈夫。」
とか、
「ここにお参りをしたのだから、私には必然的に、どこかで運は巡ってくるはず。」
とか、
そういう「これで幸せになるにきまっている」って、「漠然と」しかし「信じ切る」感覚って、それだけで「福を呼ぶ」気はする。

で、「自分は必ずうまくいく!(どのようにうまくいくかは知らんが?)」って思っていれば――やはり、あまり人をムダに妬まなくてすむのではないかな?

これは、タメしてみる価値はありそうだ。――ぜひ、いずれガッテンしたいところだが。
――さて、どうなる?(笑)

でも、「人を妬まなくなる」というそれだけで、きっと「いい顔」になると思うから、絶対、「お得」だと、私は思うのだが。

いかがだろうか?