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「その言葉」の落下地点に

言葉っていいものだなあ、と、よく思うことがある。

中には、別に自分個人に向けられた言葉では全くないのに、
でも自分の心の「内側」のそれも深い箇所にまでも、
その言葉が届いて、それによって救われたり。
(架空の内容である「小説」等を読んで救われた、っていうのも、こういうことに近いんじゃないかな?)

言葉の、そこがいいところだよねえ、と、しみじみ思う。
そしてそういう「言葉との出会い」がたくさんあると、
そういう言葉が存在するこの世もまた捨てたもんじゃないよねえ、
とさえ、これまで何度も何度も私は感じてきたのである。

――さて、ではここで。
この事象をまた、あえてその正反対から眺めてみようと思う。
そうすると、こんな可能性にも行きつく。

自分が、特定の誰かを目掛けてというわけでもなく、
宙に放り投げた言葉があったとする。
その言葉が、たまたまそこにいた誰かの上に落下することもある。
で、その時に、
その誰かが必要としている
恵みの雨とかあたたかな陽射しとか柔らかい毛布とかみたいに、
それがなってくれればこちらとしても万々歳なのだが。
しかし、落ちる角度のいたずらなんかで、刃物のような鋭さをもって、
たまたまそこに居合わせた誰かの心のそれも内側に
グサッと刺さってしまい傷を負わせてしまった――なんてことだって、
それなら別に起こってもおかしくはないんだよな?と。

で、更にその上、
「自分の言葉が人を刺した」その事実に
ずーっと、気づかぬまま、
ということも、それならきっとあり得るのだよな、と。
――もともと、誰かを目掛けて放った言葉ではないわけだから、
それはなかなか気づけないよね。

その時、自分の放った言葉について、
「いや、だって、あなたのほうから勝手に刺さってきたんじゃないですか?」と、
自分は言えるだろうか。
「言葉」を愛する人間として、私は、そんなことが言えるだろうか。


それにしても。
特に自分は、
「自分だったらそんなの平気だから」という
自分の感覚をどうしても基準にしてしまうし、
そもそもとても鈍い人間なので、
気づかないまま、同じことを繰り返してしまう、
っていうのはあるかもしれない。

「一番の良薬」にもなり得るからこそ
「一番の猛毒」にもなり得てしまう。

言葉についてだけは、もう少しくらいは、
敏感で繊細な自分でありたいと思う。

追記:
そう考えると、「フィクションの物語」は強いよなあ、と思う。
その内容が毒になりそうな人は、「所詮架空の話なんだから自分には関係ない」と自然となるだろうし、でもその人に合って良薬になりそうな場合は
ちゃんと心にまで「沁みこんで」、「効き目」がある物語になる。