「裏のない表」はなく「表のない裏」もまたない
14年前の自分のブログを読み返して、ああだのこうだのと付け足しをしてみる。
今回は2007年10月17日、
タイトル『裏のない「表」、表のない「裏」』
*
このタイトルみたいなもの、存在するか?と考えてみたのだが。
――あり得ない。(「海」と「空」くらいしかない?)
この世のものにはほとんどすべて、表があれば、裏がある。
裏からみれば、その裏に表がある。
紙も、PCも、時計も、ガラスも、ボールも。
みんな、「ひっくり返せる」ものばかりだ。
物体ではなくても。
光が存在する以上、影は必ず存在する。
熱い、と感じる感覚があるのであれば、
おのずと、冷たい、と感じる感覚もあるはず。
数字の世界、プラスにマイナス。
「午前」を作ってしまえば、その途端、「午後」が存在し始める。
よく、自分もこれまで、このブログ上で
「対」にして取り上げ、何かを語っている事が多くあった。
ひとつの「癖」といえるくらいに。
「正気」と「狂気」の事。
「感じる事」と「考える事」。
「性善説」「性悪説」にいたっては、
生まれもって、善も悪も両方持っている、なんてことにして、
話を進めていったし。
(で、実際、両方あると思うし、という話。)
どうせ語るなら、
表面だけでもなく、裏面だけでもなく、
すべてを、ありのままを、観察して、とりあげて書きたい。
(限られた時間とスペースだというのに。
全部もれなく書こうとするから、長くなるのだよね。)
文章の中でなら、
表と裏、同時に両方「見ようとする」ことも可能となるし。
(実際にそれが、ちゃんとできたか、できなかったかは、別として。)
物体に関しては、肉眼で、何の道具も使わずして、
表を見ながら、それと同時に裏を見る、なんて事はできない。
そういうものなのだと思う。
それでいいのだろう。
しかし、見られないのと、知らないのとは、また違う。
未来は、あの人は、この世とは、人間とは。
善だ、悪だ、つまらない、楽しい、簡単だ、難しい、楽だ、苦しい、やさしい、恐ろしい、・・・etc。
そんなふうに、一言で片付けて、言い切ってしまった時は。
(そういう時もありだと思う。わかりやすいから。)
見逃した、もう片方の存在がある、という事を、
いつか、きちんと、思い出せたらいいな、と思う。
(14年前の文章はここまで)
*
「今立っている視点とは反対側の視点にも意図的に立ってみる」
これはいまだに、意識しないとなかなかできない部分である。
でも、意識してなるべくやるようにしていることでもまたある。
特に、自分が好きなこと、思い入れがあること、あとは信じていること。
――いや、やっぱり好きなものの短所は見つけたくないし、思い入れってそこにヒビが入るとそのヒビ部分はもう元には戻らないところもあるし、そして、信じているものは100%信じ切っている状態がラクなので疑いの余地なんていらないし、――と、なりがちなのが、自然な人の感情だとは思うのだが。
でも、(それの「善し悪し」の話は一度脇に置いておくとして、)それでは「奥行き」がなくなってしまうと思うのだ。
そして私は、もう大人になってしまっているのだ。――つまり、子供の頃のように、純心一直線で一面的に物事をとらえることなんて、どのみちもうできなくなっているのだ……というある種の悲しい事情もある。
しかし、自分が好きなことは、短所も含めて好きになれたら、きっともっと「深く」好きになれるし、思い入れは、一度壊すところから、また新たなかたちの思い入れが生まれ出でたりもする。
そして、信じることは、疑うこととある意味セットになっていると最早私は思っている。一分も一瞬も疑うことなく信じるのは「盲信」「狂信」でしかなくて、それは「信じる」ということと一見似ているが、別物だと思う。(例えば、「万一裏切られていたとしても結局許してしまうだろう」と、「万一裏切られていた場合は絶対許さないが、裏切られていないと信じ切っている」は、表面的な態度に違いは見えにくいけど、その中身は正反対と言っていいほど違う。ここでいう「別物」とはそういう類のことだ。)
※追記:念の為。ここで言う「疑う」は「疑い続ける」ではないです。「信じる」という状態を準備するための段取りとして、「疑う」の手順を一度は通過せざるを得ない、というそういう話です。
「平面的な絵」には、それにはそれなりの良さがある。
でも、私はやはり、「多面的な絵」のほうが好きだのだと思う。
だから、表も、裏も、そのまた裏も、覗き込もうとする自分でありたい。
――繰り返すがこれは「善い悪い」の話ではない。
そう、こればかりは、個人の好みの問題だ。
だからもうこれは仕方ないのだ。