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「気が遠くなるほどの一瞬」-輪廻転生が仮にもしあったところで-

前世だの、輪廻転生だの、もし仮にあったとしても。

次もまた「人間」なる保証はない、というか、
そうそう都合よく連続して人間っていうのは、
確率的にあり得ないんじゃないか?

――たとえば、もし神様がいるとしたら。
「これまで散々、自分らで『その為に』飼育した動物なんかを
数知れず、苦悩することもなく、喰い散らかしてきた我々」
なのであるから、
公平性を考えたら、生まれ変わっての次は「逆転」して、
今度は我々のほうが、
養豚場の豚とか、養殖の魚とかになるのが正しいのでは?
てか、これまで、
自らの命の危険を冒してまで戦って捕獲するというような過程もなしに
命を食してきたその「頭数分の回数だけ」、
今度は「食べられるためだけに生まれてきた側」に回らないと、
不公平ではないか? 
「次も当然人間(ひたすら何のリスクも負わず食べる側)」だなんて何様?
って話になりはしまいか?
……とか、まあ、
出だしからちょっと悲観的すぎる冗談はさておき。
(ゴメンナサイ、本当に冗談です、こういうことは別に考えていないです。笑)

――でも、この地球上にこれだけ数多の生命体があるのだから、
「命あるものから命あるものに生まれ変わる」という条件だけであれば、
確率的に考えても、
人間以外の、
動物かもしれないし、いや、
植物かもしれないし、菌類かもしれないし、
何ならウイルスかもしれないし、
……まあ、いずれにしても当然のこととして、
「再び人間に」ってわけにはいかないような気がしないか??
「私だけは再び人間に決まっている」と思い込むのも、
傲慢な気がしないか?


で、
生まれ変わったら次になりたいのは、……そうだな~、
空を自由に飛ぶ鳥に、とか、
最後まで大事に飼ってくれる家の飼い猫に、とか、
ちょっと思ったりもしたけれど。

でももし、
……仮にもしもだけど、自ら選べるというのなら。

「やはり次も人間がいい。」

……なーんて。
ふと今思った自分にびっくりだわ。(笑)

だってさ。
良いこともあったけど、
正直、しんどいなあ、と思うこともこれまでたくさんあったじゃないか。
「人間として生きるの、ツラい……。」
「人間、キラい。……人間って、付き合いづらい。」って。

別に「死にたい」と思ったことは一度もないが。
しかし、
「寿命が尽きたら尽きたで別に惜しくもないし悔いもないや」
みたいな、
あんまりそこまで執着する気にもならないや、
こんな「クソみたいな(部分もある)現世!」とか
「アホみたいな人間が牛耳っているアホみたいな世の中!」とか。

……なーんて、思っていた時期もあったけれどねえ。
あったのに、……ねえ?


前世だの、輪廻転生だの、もし仮にあったとしても。
あったところで。

例えば、
(数えられるくらいのほんの数例しかあげられないけれども、)
言葉を読むのも綴るのも伝えるのも話すのも、こんなふうに考えるのも、音楽を聴くのも作るのも歌うのも楽器を演奏するのも、何かを描くのも創り出すのも、とっておくのも捨てるのも、幸せとか不幸せとかうれしいとか悲しいとか楽しいとか悔しいとか、美しいなあ、とか、気持ちいなあ、とか、愛すのも好きになるのも優しくするのも冷たくするのも憎むのも嫌うのも憧れるのも妬むのも、そんな感情が複雑に時に絡み合ったりするのも。

これらのことができるのは、
つまり「人間としてできること」ができるのは、
「今回」だけ、なのかもしれないと思うと。


なーんか、すべてがにわかに、
愛おしくなってきてしまった。

「惜しくもない」なんて言っていたけれど、
やっぱ「惜しいです」となってきてしまった。(笑)
――ほら、根が自分、ケチだから。
「これっきり」と思うと、

何でも、何ならすべてが、
「もったいない」に変わってしまった。

――善いことはもちろんだけど、
そうでないことすらも、もはや過ぎ去ってしまったものなら
そんな気がしてきてしまうくらいに。
(……まったくもって余談だが、そう考えると、
現在進行中の「そうでないこと」については、
「できるだけ」「できる場合は」となるが、
早く、とっとと「過去」にするようにしてしまうのが
正しい扱い方なのかもしれない。)



輪廻転生の「せい」で、くるくるくるくる、
生命体として「永遠に」回り続けるのだとしたら。

その「無限」のうちでの、
「限られたたった数十年」でしかないのである、
上記のような「人間としてできることが、できる時間」は。

「無限」に対しての「数十年」って比較して思ってしまうと、
本当に、「気が遠くなるほどの一瞬」でしかない気がしてきてしまう。

――ああ、何だか、まだ死んでもいないのに、
今、「特にこれといった意味もなかった、かつて見ていた風景」すらも、
バーッと脳裏に巡ってきて、
「走馬灯」を見ているような気にまでなってきてしまった。
たとえば、
「あの駅のベンチに座ってただボンヤリしていたあの時すらも、
自分は、生きていたのだなあ……。」みたいな。
(いや、現在まだ生きてはいるんですけど。笑)



「70年なら一瞬の夢さ」

というのは、
THE BLUE HEARTSの「ブルースを蹴飛ばせ」の歌詞の一節。
――本当にその通りだなあ、なんて、ここのところ改めて思っている。

ちょっと前までは、人生なんて、永遠に続くかのように、
思うがままの我が物顔の不遜な態度で生きていたのになあ。
でも、気づけば、あと「数十年」だけ!なんだよなあ。
そして、もう二度と、
「ここ」に戻ってくることはないんだよ。
気づけば、すべてのことが、
たった一回コッキリだ(ったのだ)よ。



この歌詞の後に続くのは、
「やりたくないことやってる暇はねえ」である。

できるだけ、――そう、「できるだけ」しかできないけれど、
それでも精一杯、「やりたいこと」から順にやっておこうと思う。
もう「後がない」わけであるからして。


老いて徐々に身体の自由がきかなくなっていく、
出来ることがますます限られていってしまう、
そんな自分の親の姿を見ていると、
「いや、あれは概ね、ウン十年後の自分の姿だよ」
なんて、「自分のこの先」も、
重なって見えてきたりもする。

ホント、「今が今のうちに」、
できることは何でもやっておこうと思うわ。


繰り返してしまうけど、
やりたくないことまで、
わざわざ手を伸ばして択びとってまで
やっている暇はないのでは?と思う。


――ちなみに、ここまで書いておいてなんですが。
私は、「前世」とか「生まれ変わり」とか「輪廻転生」とか、
あんまり、そこまで、信じているほうでもありません。
(別に信じている人の否定もしない。「知らない・わからない」ってだけ。というか、自分はどっちでもいいのです。あったとしてもどうせ自分では憶えてないんだから、そういうものを無理して思い出そうとしたり知ろうとしたりすることもないかな?と。)
(私みたいな「気が散りやすい」タイプは、「今世に集中したほうが良い」ということであります!笑)


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