見出し画像

「余裕」と「余白」は必要-「睡眠不足」は「欲張り過ぎ」の目安になるような気もする-

昨年に読んだネット記事で、ずっと気になっているものがあった。

記事を要約すると。

覚醒状態ではなく睡眠状態の方が、生命体にとってのデフォルト(初期設定)なのではないか。
つまり生命体の基本は睡眠状態のほうにある。

――うんうん、これ、なんとなく腑に落ちる感がある。

わかりやすいところなら例えば犬や猫の様子を長い時間観察していると、「眠っている」「休んでいる」時間のほうが長くね?そっちがベースになっているんじゃね?って気もする。――特に年老いてきた犬や猫ほど。

……って、そうでした、私と、そしてこれを読んでいるあなたも(たぶん、笑)人間だと思うので、もう一つ人間の方に寄せての話を挙げるとするならば。
「現代は睡眠時間が慢性的に不足している人が多い」というのもまた、少し前からよく言われている話ではあるでしょう?

――で、この記事を読んでから、ふと思い当った自分の感覚の件。

十代の終わり頃からだろうか。
「十分に睡眠をとっている」という、ごく健康的で、ごく当たり前のことに、何だか、どこか薄っすら「罪悪感」めいたものを感じるようになっていた気が、自分はするのだ。――まるで「健康を損なうか損なわないかのギリギリくらいまで忙しく動き続けることがエラい」みたいな、そんな価値観というか、考え方というかを、うっかりどこかで「擦り込まれた」気がするのである。
「二十四時間、戦えますか?」なんつーよく考えると狂気なキャッチコピーを引っ提げた某ドリンク剤のCMも、かつて(90年代前半でしたかね?)大量にオンエアされていたしなあ……。

そんなのどう考えても……ねえ? 二十四時間動き続けようなんて、「欲張る」ものじゃないですよね?――所詮、「生物の分際で」、ねえ?(笑)

いや、でも真面目な話。
「欲張る」=「忙しくなり過ぎる」という、匙加減というか感覚は、実際の自分の実生活の中に、最近感じられるところなのである。――仕事だけではなく、趣味・娯楽の事も、日常の家事や雑事でさえも。――つまり「時間をかけ過ぎている・一つ一つの量を膨らまし過ぎている・こんなに慌ただしくなるならもうちょっと手を抜いたほうがいいのかも?」というような、感覚。
逆から言えば、「何だか忙しくなり過ぎている」と感じる時は、ある意味「欲張っている」「一日の中に詰め込み過ぎている」時なのかもしれないなあ、と。

いや、(この意味での)「欲張る」が、どうしても必要な時もあるけれど。――特に「最低限生きていくために」、「(この意味での)欲張らなくてはならない」時だって、人にはいくらでもあり得るだろう。
あるいはそこまででなくても、「『無理』なんてしないほうがいいに決まっているのだが、どうしても『無理』しないといけない、または『無理』でもやり遂げてしまったほうがいい」という時もまた、誰にだってあり得る。(自分もかつてあったし、で、その時を今更後悔はしていない。)――だから他人様の「(この意味での)欲張る」あるいは「無理する」を、完全否定は、もちろん私にはできない。

が、しかし。
いついかなる時や場合においても、こういった「無理して詰め込む」「欲張る」を、手放しで良い事だなんて思わないほうがいいのではないかな?その分いろいろと取りこぼしやすくもなるし。ということは、確実に感じるし、それが最も忘れたくない、つまり今回の記事で一番に書き残しておきたいところなのである。

「無理」はどんな理由があろうとも、「良い事」ではないと思う、ということだ。――ましてや、擦り込みによって、「無理する方が素晴らしい」あるいは「無理してでも頑張る姿は美しい」なんてことを、何にも思考しないまま条件反射的に感じてしまうのは、明らかにおかしい、と、私は思う。それこそ「初期設定ミス」だと思う。――「無理」をするならするなりの、「その無理に見合った意味」が、そこには必ずないとおかしいでしょう?ということでもある。

「任務」であろうと「趣味・娯楽」であろうと何でも、欲張ってしまったその分は、長い目で見れば「生命」や「健康」の部分で、削られていく気もまた私はするのである。(頓に最近になってこれは感じるところでもある。)――だからそれが、「長い目で見ての生命・健康より、今はこっちのほうが大事なのだ!」と、改めて意識出来た上でそちらを「選択」した結果ならばいいのだけど、――でも割とそんなことまでいちいち考え及ばない、考えてはいられないものですよね、目の前の事に執心あるいは熱中している時には特にね。
とはいえ、「目に見えないもの」が損なわれていることは、気づきにくいし、「目に見える形に変わるまで」気づかないことも多い、という点は、改めて肝に銘じておきたい気もする。

「寝食忘れて熱中する」それができるものがあるのならば、別にそれを捨てる必要はないけれど。――そういう「熱中できるもの」との出会いは、それはそれでとても貴重なものだとも思うし、また「それに対しそれほどにまで熱中できる」ということ自体が、その人の一つの「才能」の表れた形だとも思えるので。
でも、どんなに貴重なことであろうと、才能のある種の一部分だろうと、「寝食忘れる」なんて状態は、「生物としては」この先ずーっと続けられることではない、と。
また「寝食忘れる」ほどのものと出会って、それを最高の状態に持っていくためには、頭と心が自由に柔軟に動いていたほうがいいと思うのだけど、それならば、その為にも、自分の場合はやはり、「休息」「睡眠」は都度十分にとらないとなあ、――と、今は感じている次第。(クドいですが、歳もとってきましたしね。笑)


人の欲望は尽きないものだ。
一つ叶えば「次の理想や夢」が生まれてもくるし、
一つ手に入れば「その次に欲しかったもの」が「一番欲しい」にせり上がってもくる。

それでも、運命を、この世を、「どこまでも自分の思いのままに」?
――それはさすがに傲慢じゃない?と、個人的には思う。
理想の追求は良くても、それがどんなに素敵な輝かしいことだとしても、「どこまでも」というのは、あり得ない。――でもうっかり「どこまでもなんていうのは、あり得ないんだよ?」というその部分を、案外忘れてしまいがちなのが、人間というものなのだ。
(まったく!「生物」の風上にも置けない!笑)
でもこれを「忘れない」で「心のどこかに留めておく」ことこそが肝要だと思う。身体の健康を鑑みても、精神の健康を鑑みても。
つまり、「期間限定」としてその「リミッター」を外してみるのは構わないと思うのだが、「ずっといつまでもどこまでも」というわけにはいかないのだよ?それはできないよ?というのを、再確認しておこう、ということだ。――それに、「それができるのは期間限定」「人間のやること、追及することには、必ず限界がある」「そしてその限界は、誰もが同じではなく、相当個人差がある」ということを忘れずにいたほうが、各々の人生にむしろメリハリもついて良い気もするんだよな。――所詮、誰もが、そう「どんな人であろうとも例外なく」、ただの「個体の生物」でしかないのであるからして。

で、そこでふと思いついたのだが。
「ここまで」という意識の上でのラインを、例えば「日々の睡眠を削らない範囲」という位置に設定するとちょうど良いのでは?(と考えるのは、いきなり極端でしょうかね?――でも、)案外この「リミッター」は、感覚上においてとても良い「目安」として、使える気がするのである。

――と、いうより。

仕事を、または丁寧な暮らしを作る為の家事を、または唯一無二の生きがいの趣味を、つまり「他のすべて」の、「それはそれで大切だけれども」なものを削ってでも。
睡眠時間って、何が何でも死守して確保すべきものなのでは?!
だって、――だって我々、人間である前に、いや、人間であるからこそ、「生物」でもあるんだもの!!!
睡眠とは、「生命体の基本設定」なんだからさっ!!!!!

(ハイ、出ました「極論」。笑)

……。

……それはさておき。(話を変えます。笑)

「何もかも、どこまでも、」自分の思い描いた通りにいく現実世界なんて。
いや、どう考えてもそんなの理想的な反面、――どう考えてもそんなのいずれ不穏な感じになりそうだし、あるいは偏って傾いた世界にどこかからなりそうではないか?と自分は思う。
だって、空の雲みたいに、不規則で不定形なのがこの世の姿のような気が私はするのだが、それならば、「自分の頭の中に描く世界」=「現実世界」みたいにシンクロしないほうがむしろ自然じゃないですか。――別の言い方をすればこれは、「本来一致しない二つのもの」が「時々一致する」からこその「幸運」なのであって、ならばその「幸運」状態を「当然」とは思わない、ということでもある。
それなのに、「理想」と「現実」の「完全一致」を、ず~っと、どこまで~も、目論むなんて、そうでなければ許さない!なんて、それはそれで少々怖い感じかもよ?と、私は思ってしまうのだ。(ちょっと私、ネガティブ思考過ぎますかね?――「個人の感想」なので流して。笑)
でも、「睡眠時間を削ってまで執心」してしまうような、――そもそも「生物として不自然」になりがちな、そんなアンバランスをしかしものともしないで突っ切ってしまう、器用?でかつ鈍感?な、――そんな、人の頭や心の中は、感覚としてちょっと「引き算」した世界に設定しておくほうが、落ち着くところには落ち着く気もする。
つまりは。
もし「何もかもは思い通りにいかない」となっても、「それはそれでまた、大いに健康的で結構ではありませんか」と、考えちゃう。
そんなくらいが実は、安全、安心、なのかも?……と、今の私個人は、そう思う。


天気だって気温だって、「自分の思い通り」になど、元からならないものなのだから。
それなら「自分の運命」も、「本来もっと努力できるはずの自分というもの」なんかも
(自分というものほど、自分で自分の思い通りには「操縦」できないものはない、……って、何でだかそういうものじゃないですか?ねえ?笑)、「自他共に」諸々全てひっくるめて、「何もかも完全に自分の思惑通り」にいかなくたって、それはそれで自然なことではないか、と、肩の力を抜く。――そもそも「思い通りにいかない」は、そーんなにそこまでガッカリ気落ちするようなことじゃないのだ、と。

いいのいいの、天気や気温は選べないけど、それでも、着ていく服や、傘を持つか持たないかくらいは、自分が選べる。その都度考えて選び直せる。――その時どきでの、「それでも自分で選べる選択肢」さえ失わなければ、それで結構だ、と、私は今、感じている。

前も別の記事で書いたが、「望みのままに無限に選べる選択肢」なんてものは、誰にとっても用意されることはない。――何故ならこれも前述した通り、人の欲は次から次へと尽きないようにできているから。――でも「何らかの選択肢」は必ず、「自分が選ぶのだ」というその意思さえ失わずにいたならば、いつでも自分の目の前にあるものなのだ。


世の中には、「この人は、運命に選ばれたのだなあ」と思える人もいる。――でも、運命なんてものに「選ばれる」って、それもまた(それが幸運の場合すらも)ある意味では「畏れるべきこと」だとも思う。

自分からいろいろと「選ぶ」側でいるほうが、多分、自分にはあっている。(と、思うことにする。――ええ、ええ、運命には、選ばれなくっても、結構でございます。笑)
運命の巨大な力強い手に、グイッとつかまれて(それが「良い方向へ」だとしても)「動かされる」より、自分は(もちろん「ハズレ」も引くけれど。笑 それでも、)「自分が選んで、自分で動きたい」人間なんだと思う。

そして、話をはじめに戻せば。

いついかなる時も、「単なる生物としての」つまり「等身大の自分自身の」、でもなるべくスッキリさせた頭で、常に考えて、選んで、それで動き続けたいと思うので。
――そうだなあ、最低でも6時間、理想を言えば7時間半は、毎日、睡眠・休息時間を、何とか死守して確保したい、かなあ?
(ごく個人的理想論。――「十分な睡眠時間」には個人差があります。笑)
(自分の場合は7時間半くらい眠ると、やっぱり、ハッキリと調子がすこぶるいいのです。)


※今回の記事は本当に「個人の感覚」話です。誰にでも当てはまることでは全くないと思います。「今年からの自分は試しにこういう考え方でいこうかな?」と、ふと思ったところを、書き留めておいたものです。