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無気力と自己犠牲

・協調性を重んじる
・とにかく徹底的に人に気を遣う
・自己主張は抑える(「私こんなに頑張ってます!」アピールも何なら控えめに)
・人(特に「上の人」)の指示には(どうしてもできないこと以外は)すべて従う
・(暗黙のものも含めて)ルールは絶対
……等々。

――いや、私も結局、これらに則って生きているのである。
この(少なくとも私が生活しているあたりの)社会で「うまく」やっていこうとするなら、「必須」と言ってもいい、これらはある種の「社会的な掟」なのである。
もちろんこの「掟」、悪いことではなく、むしろ、どちらかといえば良いことのほうが多いと思われる。――この掟知らずの「協調性がなく、一切人に気を遣えず、自己主張があまりにも強力で、人の指示には従わず、ルールは完全無視」な人にもし直面したら、私はたぶんその人のことを「自分にとって苦手な人」と認識してしまうだろう。(笑)
割とこういう掟を皆が「暗黙のうちに」守っているから、この国のこの社会はこんなに穏やかなのだとも思うし、私はどちらかといえば、この穏やかさを愛しているとすら思う。

が、しかし。

愛すべき、素晴らしい側面もあるからこそ、今一度考えてみたいのである。

ずいぶん長い間――たぶん幼少期から、私達はこの「掟」を、少しずつ、だが繰り返し、言い含められ続けて、もはやいつの間にか「条件反射的」にこの「掟」どおりに反応するようにすらなっている。
この「掟」は、一言で言えば、ある種の「自分を消す」掟である。
――いや、ホントは違うのだ。自分がここにいるのに「自分を消す」なんて、できるはずがないのだ。もしこれが「掟」で、それを守っている自分がいるとするなら、「この掟を守ろう」という自分の「意志」が、そこに必ず介在していないといけないはずだ。
――とはいえ。
私達は、もう長年に渡りこれを擦り込まれ過ぎていて、「改めて考える」ということをせずに、「自動的に」これをしている気がするのだ。


この記事を書き出したのは、このツイートを読んだからなのだが。

この図表を見ると、断トツで日本人は、勤務先にも仕事にも満足していないし、現在の勤務先に継続して勤めたくもない人の割合が多いようである。――にもかかわらず、転職の意欲はない、という人の割合も断トツでまた多い。
衝撃的な結果ではある……のだが。
「ま、わかるけどな。」
と、これを見てパッと感じた私なのである。
――そんな自分自身のほうに、私はもしかすると、後でよくよく考えてみて衝撃をうけたのかもしれない。

※ちなみに出典はこちらの本からとのことです。


これは所謂「滅私奉公」って感覚が、やけに蔓延しているこの国の風潮と繋がってくる話の気もする。

「滅私奉公」とは。

めっし‐ほうこう【滅私奉公】
〘名〙 私心を捨て去って公のために尽くすこと。

精選版 『日本国語大辞典』より

そもそもは、「滅私奉公」という行動形態は素晴らしいことなのである。
なので、「滅私奉公」というものを全否定する気は、もちろんまったくないのだ。

が、「自分を捨ててまで尽くす」ということをする時には、その価値や意味があるのかはいちいち考えないといけないのではないか。――それを「考える」作業をすっ飛ばして、何でもかんでも「従っていれば丸く収まるんですもんねぇ~」の体で意思のない「自動的な滅私奉公」をしているから、私達にはどこか「不満」が生じてしまうことが多くなるのではないだろうか。
この場合の「不満」とは――あくまで一例だが、――他人の「滅私奉公精神」を「エサ」にしてしまう、つまり「利用」してしまう輩というのは、この世には一定数いるし、多くの人は「その類の輩」の存在に、薄々は気づいてもいるはずで、例えばそんなところから生じたりする場合も多いのではないだろうか。

上記で取り上げたツイート元記事を見て私がイメージしたのは、そのような「不満」の蓄積の果てに「無気力」になってしまった、そんな人々の姿である。

「滅私奉公」は確固たる自分の「そうしたい」という意思があってこそ初めて「それをやる意味」も出てくる訳で、意思もない「滅私奉公」は、ただ「利用」されるだけの、単なる「奴隷」「ロボット」と同じだ。
つまり、「何も考えずに何かに付き従うだけ」というのは一見、その時は簡単でラクなようでも、でもそこで生じる「虚しさ」が、いずれ人から、「人らしい気力」を、奪っていく気がするのだ。



現状に不満
→でもその不満を解消する行動は特にしない、やりたくない
→不満を持ったままでいることが常態化する

ここまででも何だか救われない。が、しかし、更に私が好まないのは、

→不満なく生きている他の奴が気に入らない、足を引っ張りたい

っていうような粘着質な感じにまで発展しがちなところである。――こういうタイプの人もまた、ひっそりと、でも結構な数で存在している気がするのである。
言い換えればそれは、「不幸なら皆で等しく不幸に」という、よく考えればまったくもって意味がなくアホらしいことを、にもかかわらずもはや条件反射的に目論んでしまうような人々――で、そういう人々はそこそこ多い割合で存在しているのでは?ということである。

まとめると。
「何故今ここで、私を消さなければ、または抑えなければならないんだっけ?」
そういう「問い」は、いつでもそこにはセットであるべきなのだ。
なぜなら、「滅私」を行う場合、何かしらの「意味」がそこにあって然るべきだからだ。
で、その「問い」の答えがどうも見当たらない、つまりどう考えても「意味」が見いだせない、それなら、――わざわざ「私しかいない私」を、消して差し上げる必要はないはずでは?――意味を改めて考えず感じず、闇雲に「自分を消す」をし続けていたら、そりゃあ、不満というものは溜まる一方ではないのか?――そしてその不満は、「消される自分」がやむにやまれず上げる「悲鳴」であり、また「救けを求める声」ではないのか?


「不満」はその多くが、自分からの一種の「アラーム」だと思う。
「どうやったらその不満が出ないか、出てしまったものは消えていくか」の方向で、まず自ら動くなり考えるなりを、その時に多少面倒くさかろうと、我々はするべきなのだ。

――それは自分のみならず、他人の幸せのためにも、である。
「自分の幸せを他者から妬まれ呪われながらもそれは全く関係なく幸せなままです」なんて思い切れる人は、あんまりいないと思うからである。


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