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「勝者」にならないかわりに「敗者」にもならないしね

受験だ、就活だ、昇進だ、商売だ、と、
何だか常に「勝敗」はつきもので、
無論「希望者全員受け入れます」社会でもなし、
そうなると絶えず「競争」の中にいる気がしてしまいがちだが。

でも、競争の枠の外側に、
特に勝ちでも負けでもない「別枠」だって存在しているはずなのだ。
が、競争に執心すると、
その別枠の存在が見えなくなってしまったりもする。

「早い者勝ち」だの「弱肉強食」だの、そういうエリアからは、
自分はなるべく距離を置いていたいと最近感じている。
単純に、慌てるの嫌いだしだいたい急ぐと失敗するタイプだし(笑)、
あと、「人肉」は(比喩だとしても)なるべくなら喰いたくない。
餓死したくないのと同じくらい、
私は「人喰い人間」にもなりたくないのである。

また、「競争」を絶えず意識し続けていると、
いつまでも「自分のペース」が定まらないし、
で、それによってとりこぼれてしまうものが確実にあると感じている。

そして、それはこぼれたまま、
永遠に気づかれもせず置き去りにされ、取り戻せなくなったりもする。
(これまでの自分にも、そういうものは、自分でも気づかぬものも含めてたくさんあった気がする。)

「新たに獲りにいくもの」よりも、
「今自分だけが持っているもの」、それを「当たり前」だとは思わず
しっかり守っていくほうをベースに置いたほうが、
たぶん、自分向きで、自分にとって利点が多いと判断する……という
今回もただそれだけの個人の感覚の話である。
(つまり善い悪いの話では今回もまったくありません。)

「実際の自分の身体」を置く場所というのはもちろん存在していて、
で、あるならば、
それとは別に、「自分の心」を置く場所っていうのも、
やはりどこかにあるものだ。――「心の置き所」とでも言えばいいのか。
しかし、住まいや職場の環境として
「実際の自分の身体を置く場所」のほうは気にするのに、
「自分の心を置く場所」のその「居心地」というものについては、
割と気にしなかったり後回しにしがちだったりする。


自分の「心」のほうは目に見えないからだと思うが、
目に見えないものこそ、意識しないと、
本当にその存在を感じることすらできなくなってしまうので、
注意が必要である。

「自分にとって居心地の悪い場所」に、
自分の心を
「その管理者である自分が自ら」置いておくと、
自分の心であるにもかかわらず、
そのうちそこから心が逃げ出して行方不明、
なんてことにもなりかねない。

(でも、これは案外、よくある話だとも思う。