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「嫌な人間」とわざわざ「同類」にならなくてもよくない?

自分の内面的な部分の話で。

できるところから、少しずつでいいと思うのだが。

「こんな自分は嫌だな」と思う部分を、とにもかくにも減らすようにしようと思っている。


で、あくまで一例だけど。

――いや、そんな自分はイヤだけどさあ、でも、自分一人だけ変えても、損するばかりじゃない? やはり卑しくいかないと、奪われるばかりだからさあ。
みたいに思える部分が、例えばあったとしても。

それでも「卑しい自分」が、もし嫌なら、やはり捨てる、あるいは、修正を試みる。

で、その上で。

「人から不当に奪おうとする卑しい人間がいる問題」は、それとは別件なので、その問題は問題で、対処・対峙すればいいのだと思う。


「嫌な人間」と戦うために、自分がそれと「同類」になって立ち向かっていく、ということは、ただただ、「不機嫌の呼び水」、つまり「損」のような気がする。

例えばそれは、「意地悪には意地悪で応戦」みたいなやり方であり(でもこれはよく見かけるよね、学生時代からね)、決して、気持ちの良いやり方だとは思えない。
――まあ、早い話が、「こちらまで気分が悪くなる」案件である。――それって、やっぱり「損」だと思うんだよなあ、自分は。
(けど、ついつい人間が採用しがちなやり方でもある。)

もしかすると、「戦う」「立ち向かう」みたいな「好戦的な」感覚が、よろしくないのかも?とも思う。
あくまで「対処」でいいのだ。
そう、淡々と「処理をしていく」という感じだ。


「自分でも嫌な自分」へと、仕向けられそうな要素がやってきたら、意識の上では、それを積極的に「切り離す」作業をしたほうがいいのかもしれない。
精神的に「巻き込まれない」「うっかり同調しない」ということだ。


「自分でも嫌な自分」こそが、最大の不機嫌のもとだとも、思うからである。

なので、真っ先に、何よりも優先的に。
「自分の嫌なところ」を、まず減らせるものなら、減らしていったほうが、――「減らそうと試みている」そんな自分のほうが、――きっと、人生は明るくなる。

私は、とにもかくにも、何を差し置いてでも。
「上機嫌」でいたいし、「明るい日々」を送りたいのだ。


なんてことを、頓に思う今日この頃なのである。