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人によって態度を変えていこうと思う(笑)


私は善い人ではないので、
善い人と思われる必要はない。

人に親切にしたりすることもあるが
それは「自分が」したくてしている
ただそれだけのことであり、
「人のため」ではない。

というのが、私の信条である。
(実際、どう考えても私は「100%善人」ではない。……うん、断じてそれはない。笑)


だから、「善い人と思われる必要などない」。
――「ない」、のであるが。

やはり、どうしても、「善人には善人と思われたい」みたいな欲は、捨てきれない。
――善い人々からは、「信用されたい」し、「同類だ」「仲間だ」と、思われたい。(笑)


じゃあそれなら、全面的に「善人面」を(そうでもないくせに)作って下げて生きていけばいいじゃない?
ってなりそうだが。
それをしていると今度は、「善人をいいように利用しよう!食い物にしよう!」みたいな、善人とは真逆の「さながら害虫」も、寄ってきたりするわけなのである。


さて。
どうしたものよのぉ~??

と、考えて、ふと気づいたのだが。

早い話が「人によって態度を変える」で、これ、いいんじゃないの?
と思ったわけである。(笑)


いや、こういうのってこれまでは、抵抗があるというか、「人としてみっともなくない?」みたいに思えていたんだけど。

しかし。
「私は、あなた(たち)については特に信用・信頼はしていませんよ?」というのは、やんわり(と、言いつつ、でもわかりやすく、笑)出してみてもいいのかもしれないな?と。
(つまり一部の、そう接すべき人間に対しては、「いいかげんナメんなよ、コノヤロー」という顔をしてもいいだろう、ということである。)


別にそこまでで、「更なるケンカをふっかける」必要はなし。
――私はそもそも「争いを好む」人間ではないから、これは「好戦的にふるまう」ということではなく。

ただ、「人によって態度を変える」そのこと自体は、考えてみれば、実はごく自然なことじゃない?なんて、ふと思ってしまったわけである。

だって、「相手が違う」んだから!
――それについてそこまで「誰でも同じく公平に均等にふるまわねば」なんて、気遣う必要ないよね?と。



そもそも。
「人によって態度を変えること」自体が悪いんじゃなくて。

態度のその「変え方」――たとえば、「上のものには媚びへつらい、下のものには傍若無人」とか、「優しい人に対しては横暴で、怖い人に対しては平身低頭」みたいな――そっちが問題、というか、そっちこそを「そんなふうに、みっともなくないように」ということが大事なのだと思う。



まあ、ねえ~。
そうは言ってもねえ~。

「なんだあの人、意外と気難しいタイプなのか?」
なんて、「信用できる人」のほうからも思われてしまう可能性は、そうなると出てはくるけれど。


でも、それこそ、「もうどうでもいい」のでは?
だってそもそものモットーが、「善人でもないのに、善人と思われようとしない」だったわけだから。

「わかってくれる人はわかってくれる」(そんな人が一人もいない可能性もあるが、笑)っていう、それでいいのでは??



そういや、人との接し方について、もう一つ、私には信条としていることがあった。

鏡のようであれ。

(あくまでいくつかの例だが、)
ゆっくりお話になる方には、ゆっくり話すし。
テンポよく話される方には、テンポよく返すし。

ガツガツ来る方には、こちらからも遠慮なくハッキリガツガツでいくし。
控えめな方には、こちらも穏やかに控えめに接する。
(とか、そういうことである。)

――うむ、今まで自分でやってきたこういうことを、もう少し「延長・拡大」するだけのことだよな?これは。


誰に対しても高い壁を築いて、あるいは、ファイティングポーズ構えて、なんて、そんな必要はない。
――けど、偶に、壁を拵えファイティングポーズ構えて怖い顔もまじえてないと、こちらがやられてしまう相手も、実際、存在するわけだから。

「そういうことは、仕方ないこと」と、ここは割り切るほうが、気持ちがスッキリ清々する気がしてきたのである。