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「世間・一般・常識的」な幸福

「戻りようのない過去」や
「もう二度と会うこともない人」や、その他諸々の
「現在とは(過去の時点からの影響はともかく現時点の中で)関わりない」
そんなものに対して、
「負の感情」を今日抱き続けたって
何にも良い事がないのはわかり切っているのに、
何故そんなことをしてしまうのか?
……というのが前回の記事のお題だったわけだが。

前回の記事が自分の「内的要因」を辿る内容だったとするなら、
今回は「外的要因」のほうからまずは着目して、始めていこうと思う。

で、今回は出だしのこの時点で、一言でまとめてしまう。

もしかすると、
「とりあえず何でも愚痴れる相手」がいるかいないか、
そこが「負の感情」が心に滞りやすいかそうならないかの
大きな分かれ目なのではないか
、と、私はふと思ったのである。

言い換えると、
「愚痴れる相手がいる、それだけで幸運なことであるよ」
というその一言に尽きるのかもしれない。

そして、前記事内で、
「そう書いてはみたものの、私にとってはそれは難しいことだ」
と告白した通り。――考えてみると、
私には「何でも愚痴れる相手」が、いないのである。
実家の家族にも、知人友人にも、「何でも」というわけにはいかない。

……。
……うん、いないぞやっぱり。
(ホントにいないか、もう一回改めて考えてみたけど、……「何でも」は、やっぱりいませんでした。笑)

で、
ならばそういう相手を自分は求めているのだろうか、と、
考えてみるにつけ、
「そういう相手がいる人を羨ましくは思うのは間違いない。
……が、しかし、何故か、
自分にとってそういう相手とは、
いたらいたでありがたい気もするが、
どうしても欲しい、というものでは必ずしもないかも?」
という、薄ぼんやりした回答が、自分の心中からは返ってくる。

――これはどういうことなのだ?
――うーむ?!?!?

そうである、「そういう相手」について、
これまでいつの時代も
「そこまでこだわって求めてはいなかった」
「どうしても欲しいというわけでもない」
と感じてきたということには、
きっとそれなりの理由があるはずだ。

再び、前回同様、
胸に手を当てて心当たりを探ってみる。

……思うに私は、身内すらも含めて、
「人付き合い」というものに、
苦手意識が結構あるのではないかという気がする。
「極度の人見知り」と言い換えてもいい。
(親兄弟にすらもどこか、「いつまでも慣れない」、のである。)
(歳を重ねるにつれ、表面上はそこまででもないように「見せかける」ことはできるようになってきていると思うが。しかし内面はやはり「極度」がつく人見知りなのだ……ということを、改めて自分でこのたび認めようと思います。笑)

だから、仮に
「本来、自分の心のうちで毒となっている言葉も、
人に愚痴ることにより外の空気に触れ
結果その成分が変化もしていくはず……なのに、

それを行わないせいで、毒の言葉が毒のまま、
行き場なく自分の胸中に重く蓄積されていくばかりで、
そうなると当然、ますます苦しくなる。」のだとしても、
それでも、
「深ーく人と付き合う」ことにより
比較的何でも話し合えてしまうようになる「心理的負担」よりかは
――そう、私にとってのそれは
「負担」にもなり得てしまうようなのだ。――、
私は多分、「一人の気楽さ」を、より好む質なのだろう。

つまり、
あっちを叶えると、こっちが叶わなくなる、
ということなのだと思う。
我々は、それはもう本能として、
「ついつい欲張る」ものだから、
(というそのことについては以前に別記事で書いた気がするので、ここでは掘り下げないでおきます。)
「あっちもこっちも」欲しがってしまうが、
今回挙げたものは、私にとっては
「両方叶える」が、不可能なものなのだ、ということである。
「何でも話せる至極深い付き合い」も常時キープしつつ、
「どこまでも独りで気楽に」の環境もまた常時維持する。――うーむ、
たぶん、器用な人は、
なんてことなくこれが達成出来てしまうのかもしれないが、
そこらへん、私は不器用の極みなので、
この「両立」は、難しいだろうなあ。

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これもまた、前記事の「書き足し」として、
書き終わった後で思いついたことなのだが。

幸せになりたければ、
「まずは自分で」幸せにならんといかんのだろうな、と。
「ハッピーな空気」を、自分から先に「発して」、
それで「呼び込め」と。
(前記事で書いた通り、)
感情もまた、似たもの同士が引き合う側面があるのであるからして。

と、思ってはみたものの。

……しかしである。
どこをどう探っても、
そんな空気の出し方は、自分は知らん。(笑)

そして、更によくよく考えてみたところ。
そもそも、
「そういうハッピーな空気」を、
多分、自分はそこまで求めていないのだろうな、
と、いうところに行きついた。


ところで、
「そういうハッピー」とはなんぞや?――これはもしかすると、
「大多数」の「世間一般」の、そのうちでの「一般常識的」な、
そんな幸福のことやも知れぬ。
で、
「おおよそ世間一般的ではない自分」であるにもかかわらず、
「そんな幸福」を、いっとき、
自分に何故か当て嵌めて考えていた気もするのだ。
つまり、
「多くの人が思い浮かべるであろう幸福像」が、
自分にもまた当てはまれば幸福にきまっている、と、
どこか「イメージだけで」思い込んでいた自分がかつていた気もするのだ。


が、しかし。
自分という人間を、今一度、
よくよくよ~く、覗き込んでみれば。

結果、私にとっては、
たとえば、
「孤独」「静寂」こそが、幸福だったりするのかもしれない、と。

――そこでたぶん、大方の人は「そんなわけないじゃん!」と
各々の持つ基準で私に言うのではないかと思うのだが。
あるいは「それは独り者の負け惜しみなのでは……?」とか
思う人もいるかもしれないが。

で、私自身も、
「孤独」でハッピー!「シーンと静まり返っていて」ウッキウキ!
……という感じではけしてない。(んなわけはない。そりゃそうだ。笑)

でも、どこかで、
「一人でいること」「何もないこと」「静まり返っていること」を
深く愛している自分が、いるのである。

「それこそが幸福」という感じではない、が、
「それを一切奪われたら、そこを全部壊されたら、自分は自分でなくなる」
というくらいに、もう、自分に染みわたっているのである。
そこが自分の、心より安堵できる、
「最後に帰る場所」という気がするのだ。

――私にとってのそれは、
「真水」の美味しさに、似ているかもしれない。

改めて、普段から「美味しい!美味しい!」と味わっているわけでもない、
が、
実は自分にとって一番「おいしい」もの、
で、
時々足りなくなることもあり、その折には、
それこそ文字通り「渇望」して、
枯渇していたそれを取り戻し、心一杯に吸収する時、
「ああ、やはりこれがいちばんおいしい。」なんて
あらためてしみじみと思ったりもする。

「一生誰かと絶えずずっと一緒にいなければならない」くらいなら、
「一生一人きりでいる」ほうがマシ、……なんてことを口にすると、
「信じられない!」「強がりでは?」なんて反応が返ってくることも多い。
が、そういう「大多数の嗜好する幸福」は、
自分には当てはまらない、というそれだけのことなのだ。

(まあ、そういう反応に対しては、「変わり者なもので」と自嘲気味に笑って返すだけである。)


――わかっています、
「孤独」を「望んでいる」以上、人には頼れません。(笑)

だからこそ、
自分という人間を自分自身でよくよく見て、
自力で、蓄積する「毒」を浄化したりそこから再起したりする術を、
なんとか身につけたい、と思うのである。

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(この記事の追記的なものとして、よろしければこちらも。)