いいように使われたくないなら「いいように使われるキャラ」をまず捨てる
一昨日のこの話の続きかもしれぬ。
他者から「いいように使われる」
それが嫌なら、
「いいように使われるキャラ」を
捨てたほうが
(「なるべく」でもその空気感を
自分で意識して減らしたほうが)
いいのだろうな、
なんてことを思う。
(嫌じゃなければ、
別に構わないとも思うけど。)
よいことも悪いことも
すべてのことには
何らかの「因果」がある場合は多い。
その「果」に対しての「因」
――「人からいいように使われる」という
「結果」に対して、
そんな自分の中にもまた、
何らかの「原因となるもの」が
ある可能性は高いと思う。
但し、
「原因」とはいえ、
「自分が悪いわけではない」
「その原因は非とは言えない」
ということだって
それはもちろんありうるわけだ。
でも、
「現時点において、
なんとかならないものか」
と考えるのなら、
手っ取り早いのはやはり
「自分を変える」のほうだと思う。
――で、私自身の場合は?
よくよく胸に手を当て考えてみると
他者をいいように使い「たがる」タイプの人から
いいように使われるのは、
やっぱ、イヤかな?
というところに行きつく。(笑)
(そうでない人からなら
別にいいかもしれないけど。)
なので、このたび、
「顔色窺い」みたいな反射行動(つまり「クセ」)を、
自分の中から、
バッサリと、よい機会なので、
意識して
減らしていこうかと思っているのである。
「顔色窺い」仕草それ自体は、
結局、相手を選ばない。
――選ばないのだが。
そこに「向こうから寄りついてくる」のは
主に「その匂い」を好む人だけである。
そもそも
「人によって態度を変える」
みたいなことが、
自分は大嫌いなので、
だからこそ、このように、
「誰に対しても均等」に
「過剰に低姿勢」みたいなことを
これまでやっていたのだと思うが。
――うーん、やっぱりそこは
「過剰」である必要はない。
「過剰」にし過ぎると、
その「過剰分」を喜ぶ輩「だけ」が
結局、近づいてくるという結果になる。
(普通の人は、
「過剰分」なのであれば、
それを喜ばないものである。)
「善人」と「お人好し」は
違うのだと思う。
「善人」ではありたい。
(なかなかなれませんが!笑)
でも、
「お人好し」は、
自分の身も守れなくなりがちだから、
(で、そうなった挙句に
最終的に誰かに助けてもらうことになってもいけないだろうから)
自分はそういう仕草は
やめてみようかと思っている。
自分に与えられたエネルギーや時間は
どう考えても「有限」である。
(と、いうことを
最近つくづく感じている。)
それなら、
自分の望むところや望む相手に
それを使いたいのである。
「無駄なところ」や
「不本意な方向」に
それを捧げている余裕は
今の私には本当にないのだ。