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「オリジナル世界」
同じ世界にいても、人によって、
心に留まるものは違う。
目がとまるもの、耳がそばたてられるもの、等々、
――同じ瞬間の同じ地点に立っているという
同条件の場合ですら、
人によって、それには必ずどこか差があるだろう。
「見ていない」「見えていない」は、
「そこには存在していない」のと
その人の中では一緒になったりすることもまたあったりもする。
たとえば、
私という人間は、
確かにこの世界に存在しているハズなのだが、
誰かにとっての世界には、
私という人間は、存在していないのである。
(存在していないのと同然なのである。)
――「人の数だけ世界が存在する」と考えるなら、
何と、この世には、
「私が存在していない世界」のほうが、
数としては圧倒的に多いことになるのだ。
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私自身、
「全世界」と思って認知しているそれは、
実は現実世界の、そのほんの「断片」でしかない。
――どうしようもなく、
それは小さな小さな「断片」であろう。
だって、確かに存在しているであろう、人も場所も時間も、
確実にその大半を取りこぼしまくった上で
認知しているだけの世界に過ぎないのだから。
なるべく広く世界をみたり感じたりしたいものだとは常々思うが、
しかし反面、
「どうしようもなく断片」
――そうだよね、致し方ないよね、とも思える。
そして、
もうそれならそれで、どうせなら、
愛すべきものたちに、
360度グルリと取り囲まれている世界にしたい、とも思うのだ。
例えば、風景も、読みものも見るものも聴くものも、
集められるものなら、この心の中に、
つまりは「自分が認知しているこの世界」の中に、
愛すべきものを集められるだけ集めて
それで埋めまくっていきたい。
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「私に見えている世界」
――そう、
「この組み合わせで構成されている世界」は、実は、
「同じものは二つとない世界」なのだ。
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