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はじめから「批評目線」で見てしまう

「昔はその面白さが解らなかったのに、今は解るようになった」
みたいなことがあると、
自分は結構うれしかったりする。

が、しかし。

その反対もまたあるわけである。
つまり、
「昔は面白いと思えたものが、
今見返すと、面白いと思えない」
ということである。

そうなる理由は、いくつか、思い浮かぶものがある。

・他に比較対象に出来る作品を、それまでにたくさん知ってしまったから。
・例えば物語であれば、矛盾や、表現の浅さや、説明の足りなさ、等々、
言うなれば「雑さ」「粗」に気づくようになったから。
あとは
・時間の感覚の変化
もあるかなあ?
――冗長な内容を、許容できなくなっている自分もまた、いる気がする。

こういうのって、良い言い方をすれば
「目が肥えた」「感性が養われた」とも言えるんでしょうけど、
でも、そうだとしても、自分は何だか
「確かにかつての自分は楽しんでいたハズなのに楽しめなくなった」
というこのことについて、
「残念」な気持ちが最近強いんですよね。
なーんか、もったいないような気もする、というか。

何故そう思うのか。

・他の作品は他の作品、たとえ同ジャンルであっても
別にいちいち比較する必要はないのでは?
(むしろ比較しないようにしたほうがいいのでは?)
・「粗」があっても、それでその作品の魅力までもが、
必ずしも「相殺」されなければならないものだろうか?
「粗」の存在と、その作品の魅力が、別に絡んでいない場合もあるから、
実は打ち消し合っているわけでもない、ということもあり得るし、
つまり結局、勝手に自分が打ち上げた「総評」じみたものが、
その作品のせっかくの良い所を打ち消してしまっているだけなのでは??
(例えば、「細かい所を気にしなければ実はスゲー面白い」とか。)

……というようなことを思うからなんです。

何だか最近の自分って、
その作品を「ただただ楽しもう」としているのではなくて、
もうスタート時点から「批評視点」、いや、もっと性格悪く
「粗さがし視点」でみているところがある気がする。


――無論、「批評視点で楽しむ」という楽しみ方は元からあるし、
そのこと自体は、全く否定しないのです。
(自分の場合は「粗さがし」だけど、笑
でもそれを「楽しんでいる」ところは多分にある。)
「批評目線」で作品を鑑賞しながらも、
(自分みたいな意地の悪い視点はなくて、)
その作品の魅力は魅力でそこをじっくり楽しめている人のほうが
むしろ多い気すらしますしね。

今回の話は、あくまで自分の場合の話ですね。
――自分ったら、なんでこう、例えば、
他人が作ったものについて「俺だったらこうするのに~」とか、
いちいち差し挟んで考えるようになったんだろう??
(こういうのが最近の自分は「やけに」多い。
――もしかすると「必ず」してしまっているかもしれない。笑)
ということですね。

と、こうして振り返ってみると。

幼少期や十代の頃、
作品と向き合っていたある種の「熱量」を、
最近のその自分の変な「クセ」が、
ひたすら奪っているだけのような気がしてきて。
――言うなれば、
自分の「理屈」とか「評価」とかが、
自分自身がかつては確かに持っていた「感覚」「感性」を、
削いでしまっている感じがするんです。

「子供の頃には熱中して読んだり見たり聴いたりしていたのに、
大人になると、せっせと他の作品と比較したり、
その作品の作り手でもないのに改善点を探し出し始めたり、
つまり、そういうことによって、
無心でみる感覚が失われていて、
これはこれでもったいないことなのでは?」
なんて思ったりしているわけなんです、最近。


――なーんて、この記事もまた、
長々と理屈をつけて書いてしまったけど。

単純にこれは、
自分の中から消えてしまった種類のほうの
「楽しむ感性」みたいなものを、
惜しむ気持ちがある、というだけのことなのかもしれません。
または、
「昔は確かに持っていたはずのある部分の感受性が
いつの間にか欠けて、あるいは衰えて、そのまま失われた」
というそのことが、
少し寂しかっただけかもしれません。

まあ、「人は変わるもの」だし、
それは自分も例外なく、であるし。

だから、
「ならば今楽しめているものを、
今のうちに、存分に楽しんでおけ!」
ともまた、自分には言い聞かせておくことにします。(笑)