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「迷える羊」にこそ「伸びしろ」はあるのだ

身体はどうしてもそうはいかないんだけど。
でも、精神や心なら、その気になれば、ずっと成長過程にいられる気もするので。

そのためにも、「もう自分は間違いない、変える必要ない、絶対的に正しい」なんて疑いもしない姿勢には、ならないようにしたい。

いつでも「もっと良くできるのでは?」と探って、場合によっては、自分から自分を疑いにいったり積極的に迷いにいったりできる自分でありたい。

「自分で自分を疑っちゃう自分」「自ら迷いにいって迷ってばかりの自分」だとしても、「ま、元から自分なんてそんなものだよね」としておけば、それでそこまでガッカリ落ち込んでしまうこともないであろう。

むしろ、「永遠に自分は未完成なのだろう」というそんな見立てでいたほうが、自ずと「伸びしろ」がそこに「新たに生まれ続ける」ようになるのではないか、とも思うし。

また、そのことを逆から見れば、「迷いない・疑いない自分」とは、ある意味「既に精神的ゴール地点に辿り着いている」とも捉えられると思うので、そうなるとそれは(良いことでもある反面)「もう自分の中のどこにも伸びしろはない」とどこか自分で感じさせるようになってしまう、ということにもなるのではないだろうか。

で、そうしてそこから「精神的安定」を得られたとしても、「成長」という観点では、「もうどうにも変わりようもない」という状態にそれは感じられるようになるだろうし、何よりそれでは「今、人として生きる途上にいる」ということにおいて、どこか「精神的なほうの生命力」「張り合いみたいなもの」もまた半減してしまうことにも実はなっていくのではないか、とも、最近の私は考えているのである。

冒頭に戻るが。

身体機能はこの歳になると、どう鍛えようとも、やはりもう遅かれ早かれ衰えていくばかりであり。

でももしかすると、そんなふうにして身体においては下り坂の一途を辿って与えられた身体の生命を削りながらも、しかし精神は、顔や目線を上げて坂を上がり続ける時のように、ずっと育てていくもの、いや、「育てようとしてもいいもの」なのではないか、と、私は今、感じているわけである。

「身体の生命」は、常に時間の経過からは逃れられないこの現世の中で、物理的に劣化して削がれていくことは免れないものであり、更には(これは場合によりけりだが)悩んだり考え込んだりするその行為が与える影響で「自らで」削っていくものでもまたあるのかもしれない。(ま、自分のそういう行為で生じるストレスって、概して、健康寿命を縮めますもんね。笑)
しかしその分、「精神」はそれによって、栄養を得て育つ・育てていけるものなのだ、と、私は考える(……ようにしたいな、と。)
(結果として自らそちらへ引っ張っていけるように、という意味においても。――つまり「思い込みも肝要」ということである。笑)

※但し、言うまでもなく、「健康上の取り返しのつかないくらいところまで」自分を追い込み追い詰めて悩み考えこむ必要はもちろんないわけである(ということは念のため付け足しておこう)。
何をおいても、心身ともに、健康第一だ。
あまりにも自分の健康に悪影響を及ぼすものは、いかなるものであっても、問答無用で、あるいは完全無視して、バッサリと切って捨て去ってしまってかまわないと、(私は個人的に、でも相当の確信をもって、)考えている。
これは、「私は人間であると同時に一生物でしかないとも言える」ということと、また「この世で自分だけに割り当てられ与えられた各々の身体とその健康は、まずは自分自身が責任もって守りきれ」ということ、それらの考えからである。



(てなことを、最近ふと思ったという、昨日に引き続きこれまた極論、ごくごく個人的な考えの、本日はメモ書きでありました。)