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だって互いの心の中まで丸見えじゃ困る訳だから

前回の記事の結論として。

それはつまり、お互いに、「迂闊に相手の心中を、自分が解っているような気にならない」「迂闊に自分の心中が、相手に伝わっているに決まっている、と思い込まない」ということなのであろう。

と、いうようなことを書いたのだが、これをさらに書き進めてみようかと思う。

「あの人は自分を解ってくれない」または「あの人の考えていることがさっぱり解らない」と嘆いてしまうのは、場合によっては、(「理解してない」「理解されていない」というそのこと自体を嘆いているのではなくて、)「相手が自分を解ってくれようとすらしない」「相手が自分に伝えてくれようとすらしない」という、そういう「コミュニケーションの不足」を、本当は嘆いていることも多いのではないだろうか。
言い換えればそれは、嘆きのかたちを借りてはいるものの、その実「自分とコミュニケーションをはかろうという気が君にはあるのかね?」という、相手へのある種の「問いかけ」なのかもしれない、ということである。

(以下、至極わかり切ったことかもしれないが、でも改めて書いてしまうと、)ここで問題となっているのは、つまり「解る・解らない」以前のことなのではないか、ということだ。
「人というものは、はじめからは互いに解り得ない」というその(よく考えてみると当然の、でもうっかり忘れがちな、)大前提に立ち、それでもなお「解ろうとする」姿勢があるかないか、ということこそが、ここで問われているお題なのだと思うのだ。――だからこそ、「解った気にならない」「伝わっていると思い込まない」が肝要だと、私は前回結論づけたのだと思う。

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「解ろうとする」というその気持ちには、私は、「体温」を感じる。
そしてそんな気持ちすらない世界は、どこか、薄ら寒い。――それは、どんなに多くの人の姿かたちがそこにひしめき合い実在しているのが目視できようとも、である。
「他人の心を理解しようとすらしない人」が群れを成すその風景は、かえって、どこまでも、寒々しいばかりである。

「わからない」で、いいではないか。

「だからこそ、何とかわかり合おう、それを目指そう。」とする、そんな世の中であれ、と思う。

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そう考えるにつけ、「私には、あの人の気持ちがさっぱり理解できない」も、「あの人は、私の気持ちなんて、理解しようともしてくれない」も、実はただの「スタート地点」と言えるのではないか、と。――つまり、そういう気持ちは「起点」になり得るのではないか、と。
そういう気持ちにまずなれた、そのこと自体が、コミュニケーションというものの始まりになるはずではないだろうか、と、私は思うのである。――だって、この世のありとあらゆるすべての人に対してそういう気持ちになることはないわけであるからして。

そして更に言うと、人と人との間の気持ちは、「基本わからない」、で、そして「所詮想像でしかなく、この目で見たり読んだりすることは実際にはできない」という、それでむしろいいと思うのである。
――と、いうのも。
たとえば自分が胸の内にしまっている、考えていることや感じていることのうち、「この先もずっと人に知られたくない」という類のことは、誰にでも多かれ少なかれあると思うのだが。
と、なると、その「知られたくない、見られたくない」領域を守るためには、人の心の中というものが、「すべて外から丸見え」では、困るわけである。

だから、人の心の中は「わからない」がデフォルトで、お互いにいいのだと思う。

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そしてその上で。
こんなに人と人とのその「心」が、ごった返している世の中で、基本互いにその中身までは見えない状態で出会いすれ違っていくなら、やはり、「慮る」精神は必要なはずだ。
私達は、心については互いに「目隠し」状態で、この社会を歩いているのだから。――そんな「目隠し」が込みあっている状態で出会いすれ違っていく中で、そこに「手探り」や「間合い伺い」がなければ、そりゃあ、人と人の心はぶつかり合ってもしまうだろう。
「目にも見えないし形もないもの」であっても、ぶつかり合えば、時には、傷ついたりへこんだり、場合によっては壊れたりもしてしまう。――あ~あ、目に見えるもののほうがそこらへんわかりやすくてありがたいのだが、でも、目に見えないし形もない「心」というものを、誰もが持って生まれてきてしまっているのだから、人間として、ここは一つ、そこらへんの扱い方を一考してみたって罰は当たらないのではないだろうか。

というこれを、今回の結論として一言でまとめてしまえば。

「どうしたってすべてはわかり得ない」ものだからこそ、やはりそこには、慮るための思いやりややさしさが肝要になってくる、ということである。(もちろんそれは、各々無理のない範囲で、である。)

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