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ふっと力を抜いた時にでる力
たとえば、「書くこと」についてで考えてみれば。
「自然と動き出す筆の力」を、もっと尊重したい、と、私は最近よく考えるのである。
と、なると。
そこに、「ウケたい」「評価されたい」といった「打算的意識」は、なるべくなら、入り込まないほうがいい。
(人間だから多少はあっても仕方ないけど、「それが書く目的」とはならないようにしたい、ということ。)
そうそう。
この間読んだインターネット記事の中に、脚本家の渡辺あや氏の言葉で、「これだ!」と感じるものがあった。
渡辺あや 私は、クリエイションをするためには、無意識のような領域につながらないといけないと感じていて。いい作品を作りたいという欲を捨てると、その領域にふっとアクセスできることを体感しているんです。
「狙う」ということは。
自分のせっま~い(笑)「有意識」(ある意味ここには「自意識」も含まれるのかもしれない)の中の、その「的」しか、見えなくなる。
つまらん!
そんなの、自分でもつまらん!!
自分の中から「自分でも驚くような面白い」を引き出すのが最上の悦びなのに。
これじゃあ、できない!!
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――けれども、まあ。
「力を抜くこと」って、なかなか難しいのである。
「思い入れの強いこと」なら、猶更だ。
そして、「力が抜けるよう狙う」は、「別のことをまた狙い出す」に、うっかりなりがちだ。
(「力を抜いた時にでるあの力が欲しい!何とか出せないか」とかね?笑)
うーむ。
――「無心」になるには、煩悩とか欲が多すぎるのかもしれんな、自分は。(笑)
現代における「煩悩」の主な意味・用法
今日においては必ずしも仏教の含蓄を踏まえずに「煩悩」という表現が用いられる場合も多い。「煩悩にまみれる」「煩悩だらけ」といった言い回しで用いられることが多い。その大半は性欲(色欲)もしくは物欲・食欲に類する欲望である。あるいは名誉欲や怠惰欲、その他の(集中力や決意を阻害する)雑念などを指して「煩悩」と呼ぶ場合もある。
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