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ロイヤルストレートフラッシュなんて見たことないから ー2021年「こんなはずじゃなかった」禁止令ー

自分の歴史年表にまた加えたいものが生まれました。
(「禁止令」って……。笑)

「こんなはずじゃなかった」というセリフ、
使い勝手がいいのでつい出てしまうが、
今後一切禁止しようかと思います。
(個人的にです。笑)

反省や身の安全のためにも、
後ろを振り返って目視してみる「確認行動」まではいいと思うのだが、
でも「体勢が完全にうしろ向き」で進むのはよくない。
時間軸から見て、どう考えても
そちらは「進行方向」ではないからである。

(――そういうふうに進んでいると、またつまづく危険性も高いと思う、自分。笑)


まず、自分が立っている足元を見よう。
――つまりは「今」を見よう。進むためには、少しだけ先も見るか。

立ち上がれる、または次の一歩を踏み出せる、
その地面があるだけ、
自分はまだマシだともまた思えたのであります。


というか、
自分にとって都合のいいカード「ばかり」が手元に来ることなんてない。
「こんなはずじゃなかった」と言うのならば、
例えば今持っているものの中で
「最も大切にしているカード」と引き換えでも、
自分で思うところの「こんなはずだった」カードを手に入れたいだろうか?


例えば自分ならば、
今持っている「健康」とか「平穏」とかのカードは、
どうしても渡したくない。
「それと引き換えでもいいです」とは自分の場合はならない。
――そうでなくても「思いがけないこと」で
それらは勝手に自分の手元から、
この先、ひょいと奪われる可能性があるものばかりだ。
それは「どんなに奪われないように用心していても」、である。
逆に言えば、今それらのカードが
――「望んだもの」だけでなく「望まぬもの」まで、
自分の手元に残っているのは、「偶々」なのである。
つまり、自分の「今現在」は、良いも悪いも何も欠けることなく、
「その組み合わせ」でしか、出来上がり得ないのだと思う。

「自分が残しておきたいカードは手元に絶対残しておきながら、
欲しいカードだけを手元に引っ張り込む」なんて、
つまり「すべてを望み通りの組み合わせのみで揃える」なんて
そんなロイヤルストレートフラッシュなことは、
魔法でも使わないかぎりきっとできない。

そしてこの世に「絶対」はない。少なくとも「永遠の絶対」はない。
――という、そういうルールのこれはゲームなのである。(たぶん。笑)

だから「こんなはずじゃなかった」と言うことには、
何の意味もない。
例えば、
「あの時、自分は判断を間違ってしまった」のその「おかげ」で、
今「幸運なことに」「偶々」手元に残ったカードだって、
(自分では気づき得ないかもしれないが)
もしかするとあるのかもしれない。

運命同士の、どれがどこでどのように引き合うのかの
その作用みたいなものは、

人の頭の中で作り上げただけの
理屈や公式なんかは及ばないものだと思うし、
つまりそれは
「思いがけない」ものでほとんど構成されているのだと思うし、

なので、
例えば「幸」が「不幸」と、「不幸」が「幸」と、等々、
どの要素がどこでどのように絡んであるいは繋がりあって
存在し影響しあってているかも「その実」はわかり得ない。

「いや、自分はわかる」なんて思っていたら、それは少々傲慢だと思う。


「見えないものを見ようとする」のまではいいと思うのだが、
「見えないものなのに、人間ごときの『頭の中だけ』で
なんやかんや具体的な『画策』を小手先でする」みたいなのは、
やはり、自分の「これまで」を参考として振り返ってみても、
どうも結局はしっくりとはこないやり方だったな、と、
今頃感じている私なのである。

出来る範囲で、――たとえば、
まず今を、明るくしておこう、楽しくしよう、清々しく生きよう、
健康には自分なりにできるだけは留意して、
言動くらいはなんとか美しく(笑)、
で、おおらかに、欲張らずに、
そして謙虚に、素直に、正直に、
でも堅苦しいのは合わないから、たおやかに、軽やかに、
……くらいのフワ―っとしたものばっかりで、
(でもそれだけに絞ったにも関わらず何だかいろいろな要素があるでしょ?笑)
なんとかここからの自分の気分をまとめあげておこう。

――そんなことを思いながら、2021年も暮れていくのであります。


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