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そのかわり「心の中で毒づくのをやめる」ということ

そういうのって、相手に「直接聞こえなければ大丈夫」あるいは「悟られさえしなければかまわない」というものじゃない、と、思うようになった、というところもあります。



と、いうわけで、昨日のこの記事の付け足し。

つまり、「裏表」をあまり作らない自分にしてみたい。
――ここにきての「試み」「実験」として。

多分、これまでの感覚って、「表に1mmも出さなきゃいいんでしょ出さなきゃ。」みたいな、「ハイハイ、私が大人になれば丸く収まりますもんねえ、ハイハイハイ。」みたいな、なんかそういうところがあったんですけど。

それはそれで、一種の「嘘」なんですよね。

――アレ? 自分は「嘘」が嫌いじゃなかったっけ??
自分がつく「嘘」だけは見逃すってこと??

と、何となく自分に詰め寄りたい気分になっているんです、最近。


「裏表」を、必須でもないのに「無駄」に作り出すと、一言で言うと「穢れる」「自分のいる場や、自分の心の中が、いつまでたっても清まらない」気がするんです。
早い話が「清々したい」わけです。
散らかった場所にいたくない。――もう、そういうの「面倒くさい」わけです。(笑)


但し。

「正直にいく」「本心を出していく」というそういうことが、ある種の「暴力」になってはいけない。
(そういうことって、起こり得ることですよね。)
そのセンサーは、鈍らせないようにしないと。
だから、そうするのならばそれなりに、「心して」かからないと、と思います。

自分の心の中に一つ、(畏れ多い表現だけど、)「神社」を持つような感じというか。

つまり、「後でうしろめたくなるようなことはしない」というのは、徹底しておかないとな、と、予め自分を入念に戒めておきたいと思っています。