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それでも自分は「ツイてるねノッてるね」と思うことにする

タイトルは最後に決めたんですけど、――我ながら何コレ?
(笑……若い人は「元ネタの曲」知らないですかね?)


さて、本文。

どんなにこちらから見てツイているように見えても、
本人が「自分はついていない」と思っていたならば、
その人は「ついていない」ことになる。

もちろんその逆も然りだから、いついかなる時も、
「それでもまだ自分はついている」
と、これはもう条件反射的にこう思えるようにしといたほうが、
少なくとも笑顔で過ごせる時間は増えそうだ。

自分の「ついている・ついていない」は
とことんその本人の主観の比重が大きい、
と言うか、最終的にはそれがすべてになる。

仮に、もし完全に同じ条件の二人がいたとして、
まず先に、目につく、探す、数えだすのが、
自分の「ついている」の部分の人と、「ついてない」の部分の人とで、
片や「超ついている」、片や「超ついてない」になる可能性もあるのって、
考えてみると、何だか面白い。


100%「ついている」ことだけしかない人も、
100%「ついていない」ことだけしかない人も、
この世にはいないと思う。
探せば一人の人の中に「どちらの要素も」存在はしているはずである。
――「こちらのほうがこちらより多い」と「数値的に測量」した上で、
自分の「ついている」「ついていない」を判断している人は、
少ないのではないかな?というのが私の見立てである。


と、なると、きっと、
「自分はついていない」と感じている時は、
ついていないことを中心に自ずと眺めてしまっている時だろうし、
「自分はついている」と感じている時は
その「ついている部分」を中心に眺めている時なのではないかと。
ならば結局、人の「ついている」「ついていない」の違いなんて、
その点に――つまり「その人個人の視点の置き方」に、
集約されているだけなのでは?
言い換えれば、「ついている・ついていない」は所詮
「その人の主観次第」でしかないのでは?
――と、こういう結論に私は行きついたわけなのである。

さてここで。
「こっちにしたほうがいいに決まっている」と
他人様のことまで決めつけるのはやめておこうかと思う。
「自分はついていない」と思いがちであることが
何かの原動力になっていく人もいるかもしれないし、
「ついていない」部分ばかり探してしまう人は、それはそれで、
「先のリスクあるいは状況悪化の回避」や
「改善点をいち早く見つけ出す」という意味では、
良い面もあるのかもしれないから。
その人の性格とか、その時の状況とか、その他諸々によって、
「どっちがいい」は決まってくるものだから。

で、現時点の自分の場合は、どうだろう。
――ん-、やはり、
「それでも自分はついている」コースがいいかなあ?
(やっぱりそうか。笑)
そうです、今年は素直に、正直に。
なのでもう自ら認めていこう。私は、別にそんなに精神的に強くない。
と、なると、とりあえず笑っていられる状態に
基本的には(戻せるなら)まず戻してから何事にもあたる、
というのが、いいようだ。


というかねー、自分はもう、
「ついている」も「ついていない」も、そういう類の事をなるべく、
いちいち、あえて数え上げない、探し出さない方向でいく。
――そう、いちいちそんなの考えない。
こういうのって、「考えれば考えるほど」ってところもあるものだし。

どうでもいいじゃん、「現実」なんて誰にとっても
今この瞬間に与えてもらっている「この一個」だけなんだから。
それを大切にしていけばいいだけじゃん。
「ついている・ついていない」を考える以前に、まずはそこじゃん。
というか、もうこういう「理屈」すら、あえて抜いていく方向でいこう。


子供時代に感じていた、「漠然とした」多幸感みたいなものを、
最近、よく思い出すのである。
その多幸感の正体は、多分、
「何事も、そんなに、そこまで、深く考えてなかった」
ということ、それに尽きるような気もするのである。


「漠然と日々笑っている」
もう無意識でもそういう感じに「ふわーっと流れていく」ように
自分の心を予め意識的に傾けておこうかと思います、今年は。


では、今年のオープニングナンバーです。
2022年「私の」キャンペーンソング、
中山美穂さんで、「ツイてるねノッテるね」を聴いてください。(笑)
(幼少期に巷に流れていたヒットソングって、もう聴いているだけでも何故か無条件に元気が出てくるんですよね。)