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「酷いこと」「恐ろしいこと」があるのは仕方ない(いや、仕方なくはないが)
『世の中の嫌な面のほうがやけに多く目に入ってしまうのはツラいのだが。
でも「知らないままのほうがよかった」とはならないし、それならまだ精神的に余裕のあるうちに知っておきたい気もするし。
「一番最期のほうに初めて」知らされるほうがもっとツラいだろうし。』
という考え方の持ち主なもので、SNS上のニュースですらも、「良いニュース」よりむしろ「悪いニュース」のほうに、敏感に反応してしまう。
世の中の酷いこと、――理不尽であったり、不公平であったり、それらのうち特に「人為的なもの」――つまり人が生み出す「酷さ」について、自分は目についてしまって仕方がなかったりする。
その結果として、精神的になんだかドンヨリしてしまいがちにもなり。――なので。
以下のようにすることにしようとふと思い立った。
『世の中にある「美しい」とか「素敵」とかへと、意識的に、より多分に、目を向け耳を傾けるようにしよう。
どうしても目に耳に入ってしまう「嫌なもの」と同じくらい(またはそれ以上)の量になるように。
そうやって、「自分で意識して」、中和していこう、バランスをとっていこう。』と。
よくよく探して見てみれば、いくらでも、――美しい、素晴らしい、ありがたい、楽しい、心が洗われるような、――そんな様々な明るく優しい清らかなことが、この世界には満ち満ちているではありませんか。
今眺めている、PCやスマートフォンの画面越しですら、それらはしっかり溢れ出して伝わってくる。――なんてありがたい時代になったんだろう!ともまた思う。
――さて、ではここでいつもの。
一回、ここまで展開してきた見方と発想をひっくり返してみようと思う。
これだけ素晴らしいことや美しいものがこの世に溢れているのだから、それならその反対側にどうしても、酷いことや恐ろしいものもまた多く発生してしまうのは、もしかすると仕方のないことなのかもしれないな?と、そんなふうに、またここからは考え出してみる。
すると――『いやいや!』とたちまち否定を叫ぶ自分の声が聞こえる。
『前述のとおり特に自分の神経に触ってしまうのは「人為的な」酷いことであり、それについてはまず原因は「人」なのだから「仕方ない」とは言えないし、そして仕方ないと思えないからこそ、それらは自分にとってつらく暗い気持ちにさせられるものなのだが?』と。
――でも。
それも「込み」なのかもしれない、とあらためて私は思うのである。
例えば「この上なく地獄のように酷い」の中にいると、たぶん「少し酷い」ですら、下手すると「普通」「悪くはない」に見えることもあるだろう。――つまり、人の感覚って、割と「絶対的」なものだけで構成されていなくて、「相対的」なものでもどうしても構成されている。
「この程度でも許せない!」と思うその感覚は、もしかすると「まだマシ」と言える可能性だってあるのだ。
……という、すなわちこの考え方が、一種の「割り切り」であり「自分への慰め」でしかないという自覚はありますが。
いや、それでも、「割り切り」の「ただの慰め」だとしてもである。
この要領で、ということになるかもしれないが、私は、こうも考えてもみようかと思うのだ。
「人為的な酷いこと」を自分が感じるその分だけ、同じだけ、「ただの自然の成り行きだけではない」つまり「人が生み出したことによる」、素晴らしいや美しいもまた、この世に、というか「自分が感じられる」世界の中にはきっと、本来存在するのだろう、と。(なので「たくさん溢れている」はず、である。)
「快・不快を感じる」センサーである自分は、「本来」それらの真ん中に位置していなければならないはずのものだし、もしその位置がズレているなら、真ん中に戻すようにしよう。――つまりそれは、今の自分であれば、もっと「この世界の、人が生み出した良いこと」のほうに目を向けるようにしよう、ということになる。
――うんうんやはり、こう考えた方が気持ちももし晴れるなら(つまり無理することはないけど、ということですが、)こう考えられた方がいいではないかな、お得ではないかな、と。
結論:もうこうなったら「人から生まれた良いもの」へと、どんどん更に上回らせて目を向けるようにするしかなかろう!
それがバランス!それが中和!
――と、あえて「割り切る」「自分を慰める」その方向性に舵を切り、世界をとらえることに、この度私はいたしました。
だって、ドンヨ~リしていたって、とにかく仕方ないからさ。
(また自分のそんな「ドンヨリ」が、こういうSNS上でバッチリ他人様にまで伝わってしまっていたら、それはそれで「自分が」イヤだしさ。)
「人為的な」酷いものと同じくらい、いや、それを確実に上回る量の、
「人による」素晴らしいものを、美しいことを、
たくさん求めて、で、その上、
一応私も「人」なので(笑)、
何なら自ら発生させ、伝搬させていこうではないか!
という、今回はそんな決意表明でした。