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あるいは「無敵」になる必要もないのか

「敵」とは、「戦う」ものではなく、「すり抜けていく」「よける」のが今どきの正解なのかもしれない。

そして、自分なりに誠実に生きていれば、まわりにいる100人中100人全員が敵になるなんてことはないんじゃないかなあ。どんなに少なくとも1人くらいは、必ず味方はいてくれるものではないだろうか。
……と、自分のこれまでを振り返って、ふと思った。

もしかすると、自分の誠実な気持ちを、ちゃんと理解し知ってくれている人は必ず誰かいて、で、もし味方がたとえ1人だとしても、その1人さえ味方になってくれたならあとの99人が敵でも別にかまわない、と。――いや、かまわなくは全然ないけどさ、(だってさすがにそれではいろいろ大変過ぎるからさ、笑)でもよくよく考えてみれば、99人分であろうと、いや、何億人分であろうと、「敵意」なんか結局、自分の心と掛け合わせても良い「化学変化」なんかなかなかもたらしてくれないわけだから、「敵意」になってしまったら既にその時点で、その存在はあってもなくても「自分にとっては」実は関係ないものとなってしまっているのではないか。
つまり、これまで自分も、つい敵意の方に「防御」をしようとして過剰に反応してしまったものだけど、でもむしろ本当に自分にとって大事なのはひたすらその「わかってくれる1人、あるいは人々」のほうだったりしたのではないか、と。
変に気を散らさないで、ただただその「味方」を大事にしてそちらに意識を集中していく、そういう考え方をするほうが正解だったのかもしれないなあ、――と、そう思ったのである。


(いや、他人様の状況の事はわからないから断言してはいけないのだが、
でも、)もし、誠実にやっていてまわり100人全員が敵になりました、っていう場所にいるのなら、そんな場所からは、逃げられたら早いとこ逃げてしまったほうがいい、としか自分は考えられない。
(って、これは「理想論」を言っているだけですが、でも少なくとも「逃げ出すことを考えても絶対責められない場所」であることは間違いないと思う。)

そしてまた思うに、自分が誠実にやっていてそれでも自分の敵になる人は、基本的に自分にとって意識の上で「無視」していい人だと思う。――まあ、「無視できたら苦労しないんだよ!」って声が、昔の時間軸の中にいる自分から真っ先に聞こえてきそうですが(笑)、でも「本当の自分」とか「本心」とかには触れさせないようにすることはできたかもなあ、と、今になって思ったりしている。――つまり、そういう敵に対処しなければならない場合の自分は「仮の」「架空の」自分にしてしまう。――少なくともそうするように努める。

そんな「敵」と、「自分の本当の心をこめて」付き合ったりもやり取りしたりもする必要がないと思うからである。つまり「個人の自分が」取り合う必要性のない人だったということだ。
「表面上・便宜上の」「姿かたちだけの」つまり「心を予め空っぽにした分身の自分」が、お相手して差し上げれば十分だったのだ。
自分の「誠実さ」が、本当にもったいないからだ。――「誠実さ」も傷つくからである。そして「真心」も案外「消耗品」なのである。結構、疲弊しやすい部位なのだ。
自分の
「真面目に物事に向き合おうという気持ち」は、意外と「限りある資源」で、まず自分自身で守ってやろうとしなければならなかったのだ。つまり、それらの自分にとってはかけがえのないものをむやみやたらに「攻撃」してくるような存在は、自分の本当の意識からは遠ざけたほうがどう考えてもよかったのだ。
「真心」や「真面目な気持ち」は、自分のものであっても、いや、自分のものであるからこそ、「まず自分で」大切にしないといけないのだ。そして「悪い化学変化」をさせる物質は、「自分で」意識的に除けるようにしなくてはならない。――何故なら、それを経験則からいち早く感知できるのは、やはり自分だからである。

――うむ、今回は終始「理想論」だったかもしれない。(笑)
でも、器用な人は、こういうことを割と自然と無意識にできていたりもするのかもなあ、なんてことも思うのだ。

あなたはどうですか??


※追記
と、こんな記事を書きながらも私は、「理不尽な敵」が「避けられない程に大きく立ちはだかっていたかつての現場」からは、「逃げてよかった」と「今でも」思っていたりもする。

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