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「人為的なもの」と「人為的でないもの」

「おそろしいこと」と「かなしいこと」はそれぞれ、
私の中で大きく
「人為的なもの」と「人為的でないもの」とに二分されている。

同じ「おそろしい」や「かなしい」でも、
別物と言ってもいいくらいに
「人為的なもの」と「人為的ではないもの」とで、それぞれ、
種類が大きく異なって感じられる、ということだ。

前者の「人の企みが関わるそれ」は、ただただ恐ろしい、または悲しいだけだ。
(だからできればひたすら避けたい。)

しかし、後者「自然の成り行きによる」その「おそろしい」「かなしい」には、何て言うか、
単なる恐怖、悲哀だけとは違って、
どこかそこに「畏敬」が含まれてくるというか。


自分の中に既にある感覚と響き合ってしまう部分もあるような、極端に言えば、自分の中に予め純然と存在するものと共鳴する「何か」との、その親和性を、そこに感じられたりもしてしまう気がするのだ。――が、それと同時に、その「何か」とは、親和性を感じられようとも絶対、自らの企みから混ぜようとしてしまってはいけない「何か」でもあり。――それなのに、その「何か」に、心がどうしてもどうしようもなく、微かに惹かれ続けてしまうような、どこか「余韻に似たもの」が含まれていたりもして。――それは「おそろしい」あるいは「かなしい」であるにもかかわらず、ということである。
いや、その「どうしても惹かれる」そのこと自体が、「おそろしい」と「かなしい」の要素には含まれている、とでも言えばいいのか。
(「こわい話」や「かなしい歌」が人々に好まれるのはそのせいなのか?)


そういえば、「人為的」でさえなければ、「おそろしい」にも「かなしい」にも――例えばそれが天災であっても、疫病ですらも、――「怒り」は、自分の場合はあまり湧いてこないんだよなあ。(注:あくまでこれは「個人的な感覚としては」の話だが。)
つまり、逆に言うと、「人為的なおそろしい」や「人為的なかなしい」には、人に対する「怒り」も必ずと言っていいほどついてまわってくるので、とにかく近づきたくないのである。――うん、それは一言で言うと「忌避」だと思う。つまりそれらは私にとって「忌み嫌う」対象である。

「人に対する憎悪」が自分の中に発生するのが、自分にとって、最も嫌なことなのかもしれない。

とにかく、いかなる理由が介在しようとも、そういう対象については、触れたくないし、見たくもないし、できるだけ逃げたいと思っているようである。

これからも、そういう種類の「おそろしい」「かなしい」は、察知でき次第、つかまえられないように、逃げ出す。
少なくとも自ら、(物理的には免れないことでも)「心だけは」遠ざけようとは思っている。

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