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【本日の極論】あかるくたのしい孤独

※今回の記事は、「孤独を望んでいないあなたも、孤独を楽しんで!」
という内容ではありません。
また、「その人にとっての孤独」について、明るく楽しく捉えようと、その逆だろうと、無論それは各々自由なものであり、また自ずとその捉え方は人の数だけあるということで本来いいものだとも思うので、「孤独をこう捉えてみませんか?」と大勢に促したり提案したりする内容でもありません。

前回の記事で、
「私は孤独や静寂を愛しているのだ、身に沁みついているのだ」
というようなことを書いたが。

私はこの孤独や静寂を、自分から「求めて」いるのであり、
別にそれで苦しんでいるわけではない。
誤解される方もいるといけないので、
そのことはあらためて書き添えておこうかと思う。

というか、
この「孤独」も「静寂」も、
私だけの「孤独」「静寂」なのであって、
他人様のそれとは違う。
――そういうものは空気も色味も、実に人それぞれで、
大雑把にまとめて同じ言い方を用いたりはしても、
本来あまり各々の持つそれは案外
ピタリと重なるものではないと私は感じている。

また、言うまでもなく、
(私個人のことはともかく、)他に同様の人がいたからといって、
その人の性格なり雰囲気なりその時の気分などが
「暗い」ともまた限らない。
(「暗い」「明るい」の二色を取り揃えて御座います、……って、人の心の様子はそんなに単純に仕分けできないのは、皆さまよくご存知ですよね。)
(で、前回の記事で、私についてもしも「暗い…」と感じた方がいたなら、それは、文章から滲み出る私という人間のその人間性が澱みまくっていただけなので、――そうです、その「ドンヨリ感」は、闇や影ではなく、澱みや曇りや汚れです。笑)
(まあ、基本、私自身は「独り善がり」な世界で生きていることは否めないので、当然その「甲斐性」が、他人様までもを明るく照らしたりなどはできないであろう、ということは改めて認めておきたい。笑)

単純に「孤独耐性」が強い、という言い方もできるかもしれないが、
――いやいやしかし、
「孤りでいるということ」にも
そこにしかない「光」は点っているし、
「シーンと静かな世界」にも
それだけが持ちうる「温もり」がある、ということだ。
(例えるならそれは「雪の夜」みたいである。
無論昼間よりは暗いはずだが、計測して数値化できるものではない、
そこにしかない明るさがあるわけだし、
またその柔らかで深い静けさは、
静かすぎて「無音の音」を私は感じてしまう。
それは時に、冷たいのにもかかわらず、私の掌にはジンと温かいのだ。)
私はそういったものを、
どうしようもなく心から欲してしまう人間なのだ。

なので少くとも、
私にとっての「孤独」「静寂」は、
「ただシーンと真っ暗な冷たい場所」などではまったくないのである。
(もちろん冷たくて真っ暗な箇所も一部あると思うけど、それはそれでまた、私の好きな場所の一つでもある。)


ごく一例でしかないが、
例えば、(これもまた私のごく個人的感覚かもしれないが、)
もちろん「他人が癒してくれる」傷もあるけれど、
その反対の、
「自分一人でしか癒せない」そんな傷もある気がしている。
そして、
これは人としての
「強い」とか「強くない」とか「鍛え方が足りない」とか
そういう話ではなくて、つまり、
そこは「心の強弱」がポイントなのではない、ということである。
「自分というものに向き合う」ことでしか、
治癒されない種類の傷もまたある、と、私は思うということだ。
そして、
孤独な時間や、静寂の空間が、
その「じっと自分の内側にも改めて目を向ける」際に、
どうしても必要なこともある、というわけなのだ。


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特に、心の中にある「毒」と、その「解毒」。

自分が飲み込んだ
(あるいはそれが運悪く理不尽に「他人から飲まされた」ものであっても)
その「毒」は、
「最終的には」自分自身で解毒するしかない。
そしてその「最後は自分で治す覚悟」は、
人として、誰もが持つべきなのかもしれない。


その「覚悟」ができていないと、
「自分が毒を盛られたのだから、
今度は自分から他人に毒を盛ったってかまわないはずだ。」
という理屈になる。
そうして自らの内側の毒を、外に吐き出し撒き散らし、
そんな短絡的なやり方で少しでも減らそうとする。
そうして結局今度は自らが「人に毒を盛る」側になってしまう。
自らが存在する世界を、そうやって汚染させ、
場合によっては回収できない程に更なる遠くまで、
ぐるりと毒を拡げていくわけである。

「人に毒を盛る」ということ。
そんなふうに、「他人」でも、「他国」でも、
自分や自分が属している以外のものを痛めつけずにいられない人間は、
基本的にこの世を「呪っている」のだろうなあ、と感じる。
自分がいる世界は「ここ」なのになあ、
結局は自分の住む水槽の中に「暴力」という「毒」を撒き散らしてまあ、
どういうつもり?この先どうするの??ともまた思う。
(本当に信じられない、よくそんなことできますね?ということを、平気でやるよな。)
(もちろんその人もまた、これまでに、脅かされたり壊されたり略奪されたり力で捻じ伏せられたりいいように利用されたり土足で踏みつけられたりしたことがあったのかもしれない、ということは想像はできる。が、しかしそれでも、たとえどんな背景があろうとも、そこから新たに生まれる「関係ない人にまで及ぶ暴力」や「正直に生きている人まで巻き込む謀略や搾取」を、私はどうしても理解もできないし一分の共感も出来ない。その人が呪うことで痛めつけよう毒を撒こうとしている世界に生きる人は誰もが、何をおいてもまず、一人一人柔らかな生身の身体と心をもった個々の人間なのである。
――そしてそんな「呪い」について理解も共感もできない自分に、どこかホッと安堵するところもある。「まあ仕方ない部分もあるよね」とか「結局力が強いか弱いかなんだよ、そういうものだからさ」とか「これが現実、受け入れるしかないよね?」とか、割り切ったりなどできないおかげで、「私はこの世界を呪ってはいない」と胸を張って言えるからである。
閑話休題。)


まるで「過去」や「自分がされた仕打ち」に「報復」するかのように、
無暗に「自分以外」とみなした世界を傷つけるわけだが、
そうなると無論、その投げかけた「呪い」はまた、
その人が呪いを投げ掛けるに至ったのとおんなじような経緯を辿って、
結局、その人の元に大方は、またもや投げ返されてくるだろうと思われる。
(下手するとその人がこの世界にいなくなった後も、その「呪い」は戻る場所を見失ったまま行き場なく同じ世界をさ迷うのだ。――またそのうち、その人に比較的ちかしい「標的」を見つけたりもしてしまったりする。)

そんなふうに毒を撹拌して、
この世の隅々まで行き渡らせているわけである。

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(話が戻ってまた、世界サイズが急に縮小されますが、笑)
実際、これまでの私の些末な日常の中にすら、
「他人の心に平気で毒を盛る」人間はいて、
で、そうして自分の中の毒を他人に、
――つまり、「とるに足りないような」私の日常にまでも、
わざわざ、――その都度撒き散らしていったわけであるが。

では、今度、自分自身は、
その「盛られた毒」を、
どうしていくべきなのか、ということである。
「やられたから自分も誰かにやり返す」のか。
また別の他人に毒を盛るのか。
――正直、「吐き出して誰かにこの毒を移してしまえたなら簡単だ」
と、よぎったことは、私にもこれまで何度もあった気もするけれど。

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やはり、身体と同じように、心も、
人から受けた傷を癒すのは、最後の最後には、
自分自身でするしかないのだと私は思う。

途中、人の力を「借りる」ことは大いにあり得るが、
(実際、私は他人の存在や言葉に、常に助けられている。
「毒に当たった弱った心に効く薬草」は、
求めさえしたなら私の周りに常にいつでも茂っていたような気がする。
ずーっとそれらに囲まれてきたともいえる。
それは何と有難いことだろう!!
だからここまで、こんな自分でも、生きてこられたのだとすら思う。)
でも結局は、それらの「良薬」の助けはもらいつつも、
自分というものは、自力で癒すしかないものなのだ。
(理不尽に自分を傷つけたのは他人だとしても。)


何故なら、
自分の心は、自分でしか、
作動させてはいけないと思うからだ。
つまり、自分の心は、
いつだって、自分のものでなければならない。
(それが善意からであっても、ごく親しい関係であっても、)
誰かに、
統制されたり、操縦されたりしていいものではないと、私は思う。

自分の心を清められるのもまた、やはり最後は自分自身なのだ。
私にとっては、そのための
「孤独」の時間であり、
「静寂」の空間でもある気もしている。

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ちなみに。

仕事等で人と接する際は、
(「どうせ人と接しなければならない」のならば、いっそ、)
「たのしく」「あかるく」を私は好む人間ではある。
――何なら、ずーっと、無暗やたらにでも、
笑っていたいくらいに、である。
(「ひたすら笑い続ける」ことだけは、一人では難しいですね。笑)

一人では生みだせない、
人とのやり取りの中でこそ生まれやすい、
孤独や静寂の中にはない種類の、
そんな「光」や「温もり」が、無論そこにもまたあるからである。

特に人と共有せねばならない「場所」についても同様で、
楽しく明るく風通しが良いのを私は好む。
――で、あるならば、
そこに所在する時には自分がまず先にそうであらねば、と思う。



そこで生まれた光や温もりは
自分の内側の孤独や静寂と、相反するものでは意外となく、
時に反射もしあうし、伝わり合うものでもあるのである。

でもってまた、
「人と人との間のそこにしかないもの」に気づけるのは、
「孤独」とその「静寂」を、つくづく味わったからだとも言える。

私にとっての「孤独」は、
「永遠に一人きりの世界」ということではないし、
私にとっての「静寂」は、
「どこまでも拡がる無音の世界」ではない。

私にとっては、
「自分一人の内側の世界」と、
「自分以外の人がいる外側の世界」とが、
分かれている(分かれているのが自分にとって好ましい)
というだけであり、
その二つは分かれながらも、
必ず繋がり合って響き合っている世界、ということである。

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