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「真面目」と「真面目に見える」は別物

「真面目」ってついつい、「他人から見て」つまり真面目に「見えているか」のほうに、意識が向きがち。

でもそれは、「真面目に見える」であって、「真面目」とは違う。
つい一緒くたにしてしまいがちだが。

「真面目」というものこそ、実は、「他人からどう見えるか」より、「自分からどう見えているか」が大事なのではないだろうか。

いや、案外これ、うかうかしているといつの間にか、「他人目線」ばっかりに鋭くなって、「自分目線」を何も感じなくなったりしてしまうものなのだ。(本来どっちもバランスよく感じられるのがいいですよね。)
「真面目」の基準なんて、人それぞれでいいものなのに。
むしろ、自分の中にその基準がなければ、本来「真面目にやる」なんてこと、できないはずだから。

いや、まあ、「他人からどう見えるか」が大事な時もある、というのは
そりゃあ私も知っているが。(そこそこ大人ですしね。笑)

でも(何についても言えることだが)「他人目線」を、参考程度ではなく
「完全なる尺度」として常に使い続けると、本来自分の中にあるべき「基準」が、他人のものにすり替わっている、つまり乗っ取られてしまうこともある。――それではいつまでたっても「本物の真面目」にはなれないんじゃないかなあ、と思う。


そしてまた、「真面目に『やらなきゃ』」で動く癖をつけてしまうと、本来自発的にいくらでも生じるはずの「真面目に『やりたい』」という気持ちが、自然とは出てこなくなったりするんだよなあ。

下手すると、
「真面目にやらなきゃ…でも、真面目にやっていると、ぜ~んぶ損するばかりだ」みたいな、妙な思考回路に陥ってしまったりもする。

――うん、これ、昔の自分がまさにそうだった気がする。
意外と真面目「ふう」な性格なもので(笑)、真面目にはやっている、でも
内心「やらされている」感満載で、いつもどこか、「自分は損している」みたいな気分でいて。

今現在は真面目も、「ここまでやるべきだと自分でも思えるから」、だからやる、という感じになった。(「ここまでやる必要はない」と思えばやらない。)
やらされている、のではなく。
「真面目」こそ、「やらされる」ものではないはずだからである。

「真面目にやる」って、本来は快感を伴うものだと思う。
だって、想像してみて欲しい。何一つ「一生懸命」も「真面目」もないなんて、本来つまらないはずではないか

しかし、「やらされる」グセをつけてしまうと、「真面目にやりたい」と自然に思える、その感覚自体が失われていく気もする。

だから、「自分が心から納得できる範囲まで」を真面目にやれば、それでいいのではないかと、――いや、むしろそのほうがいいとさえ、自分は思うのである。