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「正解」「不正解」は隣り合って置かれた選択肢だったりする

「間違えてしまった」ということは、
「それが間違いである」と気づいていないと、
そういう結論を自ら抱けないはずだ。

そしてこれには、始めから定まっている「こうなったら間違いだ」のその内容がわかっていて間違う場合もあるが、間違ってみてはじめてその後で、「ああ、これは間違いだったのだ!」と気づく場合もまた、案外多いのではないだろうか。

つまり、間違えてみて初めて知ることができる(または初めて定まる)「正解」「不正解」も多いということだ。

振り返ってみると、実地試験で「間違ってしまった」と思えたから、またはそう判断できる結果が揃えられたから、「次は間違わないようにしよう」にいけたことは、自分にはこれまでたくさんあったと思う。

と、そうして後から気づく形となった場合は、
「正解」と「不正解」は、それがたとえ正反対の存在ではあっても、
結果的に、一枚のカードの「表裏」みたいに、
セットになっているようにもまた感じられたりもして。
――まあ、これは「後から思えば」というところはあるにせよ。

「正解」と「不正解」。
意味合い的には遠くかけ離れた存在でも、
しかし、実際に触れられる位置は、すぐ隣同士だった、
というような、そんな印象になることも多い、ということ。
(つまり、所詮並んで隣り合って置かれた選択肢であることには変わりはなかった、と、振り返って俯瞰で見ると感じられてくる、ということ。)




そして、
「間違い」は、多かれ少なかれ、長期間或いは短期間、
「悔やむ」のであるが、
「悔やむ」その作業自体は、ちゃんと答え合わせと見直しをしているということだから、つらいけど、よいことなのだと思う。
――悔やんでも悔やみきれないものですら、悔やむことそれ自体はきっと「よいこと」に違いないと、やはり、私は思……いたいのである。(思わせといてくれ!笑)

つらいことやしんどい思いや恥ずかしさから逃げるかのように、
一瞬たりとも悔やまない、あるいは
一切間違いを認めないというようなことをしていたら、
結構な確率で、同じ間違いを繰り返すであろう自分だもの。
(まったく悔やむことをせずとも同じ間違いは繰り返さない、という「反省しないでも修正していけちゃう」っていううらやましいタイプの人はこの世に一定数いて、でも、自分はそういう器用なタイプでも勘のいいタイプでもないんだよな。自分は、悔やまないと反省できないし、いちいちハッキリ反省しないと同じ間違いを繰り返すんだ、これが。)

間違いに気づけるから、間違いを認められるから、
悔やむことだって「できる」のだ。
「悔やむ」ということも、一種の「人間力」なのだと思いたい。

――とはいえ、いつまでもいつまでたっても限りなく悔やんでいるのは、それはもう、変質して「また別の精神状態」になっているとも思うので、注意が必要だとも思うけれど。