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でも、この世の誰も助けてくれないなんてことはないから、「大丈夫」である。

「この世の誰も何も助けてくれない」なんてことはない。
だから、
きっと、誰もが、「本当は」大丈夫なはずなのである。

但し。

大前提として「大丈夫である」のだが、
しかし、
例えば自分を「治す」という作業は、
やはり自分でなんとかするしかない。

自分というものが、治癒をしなければならない状態に陥った時、
もちろん、他人様の力はおおいに、どーんと、「借りて」いいのだ。
(そんなのお互い様でもあるし。)
(他人の力を借りる、頼ることに躊躇する人は、その姿勢が、今度は逆の立場になった時、本当にその時困っている相手を「躊躇させる」人になってしまう可能性もあるだろうから、ということもある。)

しかし、自分自身というものは、
最終的には自分自身でしか「治癒」はできないと思う。
そしてまた、
そう思う意識こそがまた、「治癒」には何より大切であると私は思う。

くどいほど繰り返しになるが、
最後にそれを「治す」のは、
たぶん「自力」でしかない。

何故なら、自分というものの「所有者」は
自分でなくてはならないからだ。
――「天からお借りしている」という考え方もあると思うが
それならなおさら、借りている自分自身が、
責任もってお借りしていないといけない、ということにもなるだろう。


「自分というもの」から、
(いっときだけならそれもいいとは思うのだが、)
永遠に、ずーっとは、逃げているわけにもいかないだろう。
それもまた、逆に
「自分が自分自身というものに勝手に逃げ去られたら、
自分が自分でなくなる」
わけなのだから、そうなったらフツーに困ってしまうだろうし、
(でも実際、例えば老いてきたりすると、望まなくてもそうなることってありますからね。)
それならば当然、今、自分から自分というものを
勝手に手放したり投げ出したりしていいわけがなかろう
……ってことになりはしまいか??と。

そうならないためにも、である。
やはり、自分というもののその「手綱」は、手離してはいけないのだ。
(時々、一瞬くらいは、うっかり離してしまうこともあるけれども。)
そして、
その「自分が自分に繋がっている手綱」を離しさえしなければ、
あとはゆっくりでもいいのだ。
どんなに時間がかかったって、かまいやしないのだ。
だって、自分が生きている時間は、
自分自身の時計でしか動かない時間だからだ。
(概してみんな、世間様や他人様の時計を気にし過ぎである。――それは「人の時計」で会って、「自分の時計」ではないはずだ。)

そして、だからこそやはり、
「一番最後の最後には、
自分は、自分でなんとかせねばならない」。

但し、
「自分で自分を何とかする」その時ですらも、――。
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