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「幸福」は「つかむ」ものではなく「願う」ものなのかも

幸せを「つかむ」ものと思うと、
激しくて逃げ場なくて、
その「現実感」に
なんだか疲れてしまうけど。

「願う」ものだと思えば、
願っているその時点で、
それだけで、既にもう、
結構幸せかもな、と。


「自分にするように
他人にもやさしく」
そして、
「他人にするように
自分にもやさしく」
(こっち割と忘れがち、
これもまた大事。笑)
という、
「本当の公平感」をもって。

「私」とか「誰か一人」だけの、
「一点集中」欲ではない、
そういう
カタチとか重さとかのない、
漠然とした、
けれど
「自分を含む全ての人」の
幸福をただただ
願えればいいのかも。


自分の好きな旅のスタイルを
イメージすると、
「荷物は少なく、自由に、
どこまででも歩き続けられる旅」
となる。

人生も、
そういう感じが
好きなのだと思う。
(善し悪しはともかく、
ですけどね。笑)

――だって、
人生もまた、
何処までも続く(ように思える)
旅なんだもの。


私欲というものは、
その善し悪しは置いておいて、
一種の「荷物」だなと。
――案外かさばって
重たいものだなと、
最近思う。

「それのせいで
歩きづらくなっていない?」
と、自分に問いたい。

「いっその事、
そんな荷物を持たない方が
身軽でラクになるのかも?
自由に縛られず動けて
結果的に楽しくなるかも?」
なんてことも、また思う。