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「人生どうしたいか」より先に「自分がどういう人間でありたいか」を

「人生をどうしたいか」のその手前に、「自分がどういう人間でありたいか」のほうを、先に置いておきたい――と、最近感じてきている自分なのである。

「人生どうしたいか」だと、兎角外側に何かしらを求めてどうにかしていこうとする要素が必須になるけど、「自分がどういう人間に」の場合は、まず自分の内側からスタートするのでもかまわないわけである。――つまり「手っ取り早い」。

もちろん、これもまた、どっちのほうが良い悪いではなくて、単なる個人の「好みの問題」であって。
早い話が「自分という人間そのものをまず先にどうにかしてから、その後に、人生どうしたいかも考えるなら考えるようにしてみようか」という、これは今後についての言うなれば私個人の「趣向」「意匠」の話、ということだ。


でも、この「自分の外側にある世界」は結局、「まず自分自身で見て感じて識る世界」としてしかどうしたって認識できないわけだから、まず自分が変われば、世界の見え方は変わるし、それにともない事実上世界自体も変わってしまう、とも言える(かもしれない?)わけである。――だって、自分が自意識を伴って存在できる世界は、自分が認識している世界にしかないのだから。

つまりそれを別の角度から言い換えれば、自分の見方、識り方、感じ方が歪み始めたら、世界もそのまま歪み始める、というふうなことにもなるわけである。――その場合には、まるっきり、「不正確な世界」の中に自分を置く羽目になる、ということだ。

例えば、「こんな自分は自分じゃない」と自ら感じている時の自分自身が認識している、そんな「世界」の、――でもそれは、その自分にとってはそれ以外に持ち合わせはない「世界」なのであるが、――その中で人生をどう組み立てていこうかと考えてもなあ、と、このところ、頓に私自身は感じるようになった、と、こういうわけだ。

もしかすると「自分という人間はどのようでもさておいて、先に自分の人生のほうをどうしたいのか考えようではないか」方式では、その時は気づかなくても、どこか「最期」のあたりで、虚しさが嵩じてきてしまうのではないか、という気もまたするのだ。――「その当時」には思い通りにいって上出来だったことに対してまでも。
だって、何を組み立て築き上げたとしても、結局、一番最後の「最期」その瞬間に自分の手元に残るものは、「自分の魂」――つまり「自分自身だけ」になるわけだから。

そんなこんなで、「まず自分の掛けている眼鏡を綺麗にするところからかもな、自分は。」と、あらためて感じている、そんな2021年秋なのである。


また、自分のこの手が直接届かぬような「今どうにもならないこと」はもちろん、今更この手が触れられるはずもない「かつてどうにもならなかったこと」に対してなら尚更、あんまり延々といつまでも地団駄を踏んでいたくない、ということもある。

私ももうそんなに若くない。んなことしている時間はない。
――うむ、まあとにかく「残り時間」が限られてきているのである。(笑)

つまり、「人生をどうしたいか」からより、「自分をどういう人間にしたいか」からスタートを切って動いた方が、多分、地団駄を踏む機会も期間も、まだあるいは少なくてすむのではないか、と感じたことも大きい、と、こういう次第である。


(よく考えると、今回の記事の続きのようになっているので、こちらの記事もよろしければ!)

こういう、「外側」がどうにもならないしこうにもできないしの時こそ、自分の「内側」に立ち返るいい機会なのかも?と、最近、ふと思えたのである。
「当たり前」に思ってしまうと、そのことを大切にしなくなるし、それは長い目で見ると、相当「もったいない」ことだと感じた、ということなのだ。

というような内容です。