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「お客さまは神様」って客のほうが言い出すおかしさ

自分のことを「私は神様です」って言い出した時点で、若干、頭がおかしいわけである。

あと、自分の立ち位置に「様」つけて呼ぶのも、どうかしているとしかいいようがない。

「客として金を払う」と「約束したサービスを提供する」というのは、単なる「そういう契約を結んだ対等な関係」でしかないのだから、どちらが上も下もないのである。

習俗的に下手に相手が出るからって、それで何を勘違いしてしまうのだか、どうもこういう「客は神」という「誤った感覚」を擦り込まれた「客」って、時々いるみたいで、困りものである。
――商いをする側が、信条として「お客様は神様です」を掲げるのと、客側が「私は神様です」と現実的に宣っちゃうのとは、等しく成立しそうで全くしないし、イコールで結びつきそうでいて結びつかない、という話である。

店「お客様を神様だと思って心よりサービスいたします。」
客「うむ、我を神だと思って、サービスに勤しみたまえ。」

――どう考えてもおかしいだろ、このやりとり。ショートコントじゃないんだから。(笑)

こういうのって、「理屈で考えるならそこまで単純化するな」とも言えるし、しかしまた、理屈なんかでこねくり回して考えずとも、常識的な「感覚」で考えれば、わかりそうなものだけどな?と私なんかは思うのだが、いかがだろうか?


「金を払えば何をやったっていいってものではない。」
(そうそう、昨日、これをタイトルにしてみたものの、そこのところを掘り下げる前に記事自体が結構な文字数になってしまったのでブレーキをかけてしまい、あまり書けなかったのだ。そこから今日は書いてみようかと思うのだが。)

(これも昨日の繰り返しになるが、)
この社会において「お金」は確かに魔法のように便利なものであるが、しかしどんなに便利でもそれは「道具」なのである。――「道具」は所詮、「道具」でしかない、ということだ。

そう、あまりにも便利に使えるから、「お金」そのものを皆がありがたがっているだけであって。
「お金をたくさん持っている」それだけでは、お前自身、お前本体が、ありがたいわけじゃねーんだよ!

とか、ついお声かけしたくなるお客を巷で時々見かける、と、こういう次第なのである。

【拝金主義】
金銭最上のものとしてあがめる考え方。より多く儲けることを考え、金をため込もうとする態度マンモニズム

デジタル大辞泉

しかし、なるほど、こういう考え方でいると、下手すると「人よりお金が上」で「金こそ神」なんて感覚になって。
「それを今持っていてお前に恵みとして分け与える自分のほうが神」なんて感覚にもいずれなるだろうか。

でも、冷静に考えて欲しい。

「金」というものを、そのシステム自体を、作り出したのは人間なのだ。

所詮、人間が後から作り出した「道具」について、はは~、てな具合で神と崇めて拝んでいるなんて、それは滑稽というものではないだろうか。

で、これまた、こういう「拝金主義」の人間に限って、しかし「お金」と自分を同化させたがるのである。
「金を持っている自分のほうが神」とでも言わんばかりに。

「勘違いして横柄」なのは、何も「お客」の中にだけ見られるものではない。


いや、いつも思うのだけど、こういう「受託収賄」だの「中抜き」だのしたがる人々って、別に生活費に困っているわけでもなかろうに(笑)、何で罪を犯してまでこんなことするんだろうか?と。

いや、早い話が、「それだけ持っているんだったら、もうお金、『犯罪に手を染めて』無理してまで集めなくてよくないですか?」と思うのだが。

――でも、そうかそうか。
「大きなお金を自在に動かせる自分こそ神」でありたいのか。

……。

……傍から見ていると、「くだらない」としか思えない。(良い子はくれぐれもマネしないでほしい。笑)

「国の財産を、便宜図って大幅値下げして背任」とか。

「選挙の票を金で買う」とか。


ホント、「大金を動かせる自分って神」みたいな発想ですよね、ここらへんも。

「生活に困っていた、お金が必要だった」なら、まだいいのに。
――ここら辺の「拝金主義」は、そういうわけでもまずないし、「金」「地位」みたいなものに、どこまでも執心している卑しさしか感じない。

「お金」も「地位」も、それらは後付けのものであって、「その人自身」ではないのだが、――そんなものはなくたって、まずその手前で、「その人はその人」でしかないのだが――そういうことも、もはや「お金が強力な魔力を持つ」この世の中では通じない、ということなのだろうか。

そうなのである。
「神になりたがる」人が成立する背景には必ず、「そういう人を崇め奉りたがる」人々もそれなりの数いる、ということなのである。

そういう立ち位置の人も含めての、みんなまとめての、「拝金主義」なのである。

ところで。

「人」というものを、「その人がその人自身である」ということを、まず、否定しないでいきたい、と私は思うのだが、いかがだろうか。

「金」や「地位」によって、自分を権威付けたい、とやけに執心する人の、その心の裏側には、もしかすると、「ただのその人自身」がいない、またはそれが薄い、ということはないだろうか。
――下手すると、「ただのその人自身」であることを、否定すらしている(あるいはどこかでされてきた)ということはないだろうか。――「もっとお前はこうでなければならない」「もっとお前はああいうふうになるべきなのだ」と、自分で、あるいは他人から、執拗に言い続け、言われ続けてきた、ということはないだろうか。――「そのままのお前では問題がある、全然ダメだ」と。
(そこまで想像するのは「大きなお世話」ですけど。――でも、自分にだってそういうことは、多少「されてきた」心当たりはあるのだわ。)
そのせいで、そういう「外付け」「後付け」の何かがないと、自分で自分にすら、自分の「存在意義」を感じられない、なんてことはないだろうか。

――「金」も「地位」も、そんなものなくたって、それ以前の段階で、「その人がその人でいられる」それだけで、結構うれしく楽しくありがたく、そして実に素晴らしいものであるはずなのになあ。

むしろ外付け後付けの「金」やら「地位」やらは、そうやって何だか知らんけどアホみたいに奉って拝んでくる人もいるせいで、それってやはり「勘違い」の元にもなりやすいから――「金」や「地位」そのものが自分自身のアイデンティティーの全てだと(……ま、そうは言っても、あったらあったでもちろんありがたいものだけどさ、笑)――だから無いなら無いで、それはそれなりに「邪念」も寄せられないし「身軽」になれるわけだから、悪くもないのではないか?なんて私は思うのであるが……。


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