話を聴く、って効く。
話をきく、ということがどうしてこんなに心には効くんでしょうか。私は日々カウンセリングをしていて、その不思議を考えることがあります。自分のきもちを、だれかに話す、ということ。その話がそのだれかに受け止めてもらえること。ただその小さな積み重ねだけでも、効くのです。毎日胸をとらえて離れなかった重い気分や胸の奥にあったつかえがうすくなります。
特別に医師のもとやカウンセラーのもとを訪ねなくても、患者さんと一緒に過ごす時間の長い家族や近い方が話を聞く態度をかえただけで、状態はかなりよい方向に変化し始める、というエピソードも耳にします。あるいはカウンセリングに通い始め、カウンセリングの場に同席することで、話の聞き方を参考にしてその後のご自分の姿勢を少し変化させることができたお母さんが、その後患者さんの状態をよくすることに大いに貢献している、と感じることもあります。
思い浮かべてもらいたいのは、例えば、中学校の教室の窓際。女子ふたりです。たいていは、大人が聞いたらとてもとりとめないのない話をしています。昨日歩いてたら犬と目が合った。犬がちょっと目を伏せた。おもしろかった。うちの犬は散歩に行くとウンチする。ウンチしながら、ちらちら、っとこっちを振り向くよ。はずかしそうだよ。はずかしいってあるのかなあ犬に。あるよ犬だって。ほんとう?
……ほんとうにとりとめのない話です。だけどきっとそれは重要な時間なんだと私は思います。きっと気をつかってないふたりなら、思いついたことをそのまま口にしているでしょう。感じてることもそのまま。そして「そうかなあ。」「そういえばさあ」とか返事をもらいながらも、「あなたの話っておもしろいね」という相手の気持ちは感じてるでしょう。ありのままの私を受け入れてもらえる、ってとても楽しいことです。話自体そんな爆笑の鉄板ネタでなくてもなんだか、笑えてくる、楽しくなってくるものです。
いや、意地悪な見方だってできます。仲良しに見える二人でも、ほんとは相手にとても気を使ってることだってあるでしょう。ほんとは犬の視線なんて興味ないのに、そのふりをしてるだけかもしれない。そうしてると少しずつ疲れがたまるでしょう。ほんとのことは表から見てもよくわかりはしないのです。けれど、自分が確かに思っていることを口にするのは、どっかおなかが軽くなったのが自分にはわかったりします。
ありのままを話すこと、聞いてもらうこと、っていうのが自分の安全をとても確認できる、ほっとするイベントなのは間違いなさそうです。
その単純な時間が、現代日本の生活では、お父さんやお母さんの子供時代、おじいさんたちの子供時代と比べるとずいぶんへっているのだと私は考えます。
たとえば「発達障害」という診断名のつく人が子供も大人も増えている、という統計があります。むかしは少なかった病気が、今は増えた、ということなのでしょうか。けれど、この統計には別の見方もあります。
「発達障害」がそうと診断されるには、検査で得られる認知の特性や数値が、そのパターンに当てはまれば十分、というわけではないのです。身体の病気とはそこが少し違います。たとえば血圧計ではかって高い数値が出たら、その時からその人は「高血圧症」と診断されます。その時から「患者さん」です。ですが、心理検査で明らかなその特徴を示しても、その人はそう「診断」されないことがあります。「患者さん」ではない人がいるのです。その人が生活の中で困難を経験していてはじめて診断されることになっています。つまり数値ではずいぶん平均から外れていて、病の人と共通する特徴が示されていても、不自由なく生活できていれば、「障害」とはされないのです。
いま、発達障害がふえている、というのは、その「人」の問題というよりは、その人を患者にしてしまう「社会の」問題だ、と言えるのではないだろうか。これは私ひとりの考えではありません。多くの専門家がそうした見解を示しています。
ひとむかしまえならそのままでもなにも問題とされなかった「ちょっと特徴のある人」が、今は問題のある、直さないといけない人、という扱いを受ける。得意なことが一つあって、他のことには身が入らないこどもが「面白い子」として愛されたのに、今は――
2020年で196,127人の小中学生が不登校です。8年連続で増加しています。文部科学省の調査です。不登校の児童生徒数が全体に占める割合は、小学校で1.0%、中学校で4.1%、となっています。悲しい、苦しい数字です。中学生で5パーセントに近い子供が学校にいけない、というのは、ちょっと信じられないくらいの数です。ごく一部の生徒、とは言えない数字ではないでしょうか。しかも、この周囲には、それに倍する「長期欠席の子供」「長期とまではいわないけれど短くない欠席日数がある子」がいるはずです。「10パーセントが不登校あるいは登校しぶり」と表現する統計の数値もあります。1割もの子供を「行きたいのに行けない」状態に追い込むのが今の学校なのです。
そして学校だけの責任にしていいはずはない、と多くの専門家が考えています。学校の教員たち、管理職たちは親たちの意見、意向を常に気にしています。はるかむかしと違って教員という職業はいろんなクレームを気にする職業になっています。教室の中でのことだけじゃなく、地域のこと、親のこと、管理職からのこと、いろんなことを気にして、教員たちはがんじがらめに管理されている、と退職した教員たちはその変化を嘆いています。多くの親たちや地域社会の意見、表に出ない社会全体の空気、そんなものが、今のその厳しい学校現場の状況をつくりだしている、というわけです。さて。どうしたらいいんでしょう。
この文章は「昔はよかった」と愚痴をつづりたかったわけではありません。逆に言うと、もし病が、患者さんのせいではなく、かなりの程度として、患者さんを取り巻く周囲のせいである、と言えるなら、それは「周囲」の人が、身近な人が、様子をかえてしまえば、その人は患者さんではなくなるのかもしれない――という希望を与える話ではないでしょうか。
厳しすぎるこの社会の見方をいったんは脇に置いて、その人の特徴のうち、いいところを見るように、態度をかえること。それだけで状況はかなりかわるのじゃないでしょうか。
(後編につづきます)
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