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話を聴く、って効く(後編)

 しかし、きっとこの潔くてさわやかな話には、きっと隠されたサイドストーリーがあるのです。野茂投手が三振を取る。監督、大喜び。「いけいけー。おまえはそれやそれ。」四球は笑って大目に見てくれる。彼は少々の失敗が許されるという日々の中、様々なチャレンジを試してみるでしょう。なにしろ失敗は許されるのですから。でも四球が続き、KOされることが続き、失敗続きの日々に、その四球をどうにかしたいと思わないはずがないのです。自分の身体で覚えるしかない。自分のからだの感覚で試してみるしかコツはつかめない。だから、特徴のある自分をもてあましながらも、日々、他の人にはわからない、わかってもらえない模索があったはずです。

 ――ここまでくると、それはもうぴったり、発達障害とされる人の社会適応への道を描く物語に読めてきませんか?

 人間はだれしも、社会適応への途上人です。うまくいってるように見える人でも、それは毎分毎秒の適応のための微調整のプロセスです。だれしも特長があり、短所もあります。自分の短所に困りながら、悲しい気持ちにときどき落ちながら、長所に慰められつつ、ときにはうぬぼれつつ、その調整に心砕いているのです。その調整は死ぬまで続くのです。発達障害とされる人も同じです。短所とつき合いつつうまく日々をしのぐには、長所にうぬぼれる時間が必要なのです。うぬぼれる時間がエネルギーになります。野茂君があれだけの一流選手になれた理由は、弱点とつきあい、克服するためのうぬぼれる時間をたっぷり与えられたからだ、と言えるのかもしれません。

 それに、ここが最も肝心なところなのかもしれませんが、うぬぼれる時間をちょくちょく持ちながら過ごせていたら、もしかしたら弱点など直さないままでも人は機嫌よく生きていけます。機嫌よく生きて行けさえしたら、もうそれ自体、人生OKだ、ということではありませんか。人は必ず定型の株式会社の一員になって、その管理職に出世して定年退職しないといけないわけではありません。その定型のコース以外に幸せがないのか?そんなことありません。それにこれからの世の中はこれまでの世の中とはきっともっと違います。たとえば今の世代の就職活動のやり方は、お父さん世代のとはすっかり違ってしまったのが、現在です。生き方だってもっと多様なコースがあるのだし、生きる場所だって多様でしょう。それは意外と上機嫌さえ保っていたら、試行錯誤を活発にするご本人が道をみつけるのでしょう。以前の自分には思いつきもしなかった独特の方法に、試行錯誤の時間は導いてくれるのでしょう。

 不安や心配のない見守り方、というのはきっとありません。人生は、不安・心配と道連れの旅です。そして、本人が自分で歩く旅です。他の人が代わりに歩いてあげることはできないのです。もしかしたら、周囲の愛情ある人が、その愛情の必然としてたくさんの不安・心配を発揮して、自分の中の不安・心配を消し去ろうと焦ってしまい、本人の失敗・短所を消し去ろうとする圧迫を生んでしまい、結果として「生きづらい環境」を強く作ってしまっている、ということになっていないでしょうか。いったん足を止めて考えてみることを提案します。善意が、よい環境をつくるとは限らない、というのが心の問題だと言ってもいいかもしれません。いったん足を止めてみるなんてどうしたらいいのか?困った時こそ新しい知恵が生れるチャンスです。でもむつかしい課題かもしれません。臨床心理士はそのお手伝いができます。

 昔と比べれば発達障害と診断される人が明らかに増えた、という事実は、私たち普通の生活人が、ありのままを受け容れる幅が小さくなった、ということの反映ではないか、とする知見があります。昔よりは、「こうでなくっちゃ生きていけない」とされる幅を、人々は狭く感じるようになった、というのです。実際に狭くなったかどうかはわかりません。それものちに考察してみたいテーマではあります。ただ、「普通」とは違う特徴や特長にたいして、人々が厳しくなったことは確かじゃないかと私は思います。その流れをどこかでとめて、まずは自分から、ありのままを受け容れて聴く、っていう時間を持つ人になるチャレンジくらいは始められそうに思うのです。

 

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