「学校へ行く」のは生きるためには唯一絶対の正解でしょうか。
学校にいけない子供さんに対して、ことあるごとに「学校に行ってみよう」と勧めるお医者さんが、おられます。すると、子供さんは追い詰められることになってしまいがちです。
医師という職の方々は、残念なことにというか、皮肉なことにというか、ほぼ例外なく、それまでの人生を通して学校という社会を優秀に乗り切ってこられた、受験競争の勝者なのですね。学校という社会での理不尽や厳しい空気をこらえ、耐え、しのいでこられた苦労人が多い。すると、そうやってきたご自身の半生に、達成感を持って暮らしていることが多いのは当然です。そして、「学校社会をしんぼうして生き続けることはまちがいのない道だ」という思想を、疑わない方もおられます。
もちろん全員が全員、そうだというわけではありません。自分もなんらか、学生時代の環境に違和感を覚え、なにかの疑問は抱えながらも、周囲や親からの期待も圧力も感じながらかろうじて乗りきってこられたようなタイプも少なくはないのです。学校社会からの圧迫に苦しむ子供の心に共感を示すことのできる医師の方もおられます。
そんなお人柄を持つ医師に出会えた患者さんは幸運です。
学校にいけない子供たちにとってなにより大切なのは、ふれあう周囲の人から「共感」の態度で接してもらうことなのです。学校にいけないことはなにより、子ども本人が苦しんでいます。行けないことを心の底から気にしていない子供などいるでしょうか。気にしないで、主体的な選択として、行かないことを自ら選んでいる子供の例を、私は見たことがありません。そんな革新的な思想に一人で到達する子供など、この国にはいないのではないでしょうか。行きたくなくて行かない子はいないのだと思います。
その苦しみは、それ自体苦しいことなのに、さらに周囲からの見る目によって、二次的なものまでついてきます。お父さんはダメな子だと思ってる。お母さんを悲しませている。先生が困っている。……そんな思いもあって、自分のためだけでなく、そうした近い人たちのためにも、なんとか行こう、行かねば、と彼は力むのです。そして力めば力むほどパフォーマンスは悪くなります。自己嫌悪の感情ばかり募るのです。
彼が行けなくなっている理由は、多くの場合混とんとしていて、彼自身もうまく説明できません。その理由を探すたびを、いっしょに誰かに寄り添ってほしいのに、そういうことをしてくれる他者はなかなか見つけられません。親はその悩むプロセスには関わるよりは、ただ「行ったか、行かないか、」「行こうとしたか、しなかったか」の結果ばかりを見がちです。先生も自分のクラスの不登校児をうまく登校にむすびつけられたか、自分の仕事の評価につながるという視点で、「来てほしい」という要請をするのは自然です。同級生もなぜ来れないのか、同世代だけど理解できない。友だちだったら来てほしい、と望みます。
結果を、と焦って求めないで、まず行けない自分はどうしてなんだろうか、と誰かに一緒に考えてほしいのです。いったんは立ち止まって。だけど誰もいません。彼は孤独です。不登校が長くなればなるほど、孤独は深くなります。そして、孤独、という感情が、さらに彼の心の苦しさを増幅させます。心が苦しくなると、元気が出ませんから、学校に行く困難にふみこむエネルギーはさらに枯れます。
「行けないのはしんどいね。そのしんどさはなんだかわかるよ」
その言葉が、ほしいのです。しんどい、ということが今のありのままの彼ですから、その彼のありのままの気持ちを受けとめ、受け入れてほしいのです。その言葉に出会えたときから、回復はゆっくりとはじまるのです。
ほかの気持ちだったら大人たちはわりと受け止めてくれるのに、この気持ちだけはなかなか受けれ入れてもらえないのが、現代社会、現代日本の社会です。
たとえば誕生日には大きめのケーキが欲しい。「わがままだねえ。だけど頑張っていい子にしてたら、いつもよりちょっと大きめのをね。了解。」お母さんは言ってくれるでしょう。
たとえば妹の言い分ばかり通る。僕のおもちゃを勝手にとったのは妹なのに。ケンカしたらいつも叱られるのは僕ばかりじゃないか。「そうだったんだ。ごめんね。お兄ちゃんだからって辛抱ばっかりさせるのはいかんよねお母さんは。こっそりお父さんはジュースおごってあげよう」
だけど学校に行きたくない。つらいんだ。行かないのもつらい、行くのはもっとつらいんだ。ってことばは、受けとめる言葉をもらえることはまれです。
どうしたらいいんでしょう。
(次号へ続きます)
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