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映画:ハリエット

アメリカの新20ドル紙幣にデザインされる予定の人。
米国紙幣でアフリカ系アメリカ人がデザインされるのは初めてのことだそう。
でも、あの大変な大統領によって紙幣発行が延期にされている様子。
デザインが決まらないとか言って、発行は2028年以降になると発表され、
HPからも記載が消えたそうです(by wiki)。

そんな話も読みつつ、見てきました。
奴隷として生まれたミンティが身の危険を感じて逃亡し、
晴れて自由を手に入れてハリエットと名を変え、普通の生活を送るようになり、
でも1年ほどで最初は家族を助けに南部へ戻り、
その後、次々と奴隷を助け出す様子を描きます。

最初の逃亡が過酷でよく死なずに支援者のもとまでたどり着いたな・・・
と思うのに、普通に給与をもらってメイドとして働く生活をして
1年ほどで家族を助けに南部に戻ると言いだして、
見てる私もやめてー!って気持ちになりましたよ。

もちろん支援者も無謀だからやめろ、そんなことはできるわけがない!
と言うのですが、いや、できる、やってみせる、と言い切って、
準備をして出かけるハリエット。
赤ちゃんを含む9人の奴隷を連れて逃亡する途中で、
使命感に目覚めるシーンが印象的でした。

川を渡る橋が危険だと感じたハリエットが川を歩いて渡ると言ったときに、
連れていた弟?から、無謀だ、信頼できない、と言われて
一緒に逃げているメンバーにも迷いが生じます。
それでも、彼女が歩いて川に入り奇跡的にも深くならずに
歩いて渡り切れる場所だったことでハリエットも自分の判断に自信を持ち、
連れているメンバーも彼女を信頼する。

この場面から、家族にも奴隷時代の名前であるミンティではなく、
ハリエットと呼ぶように伝えます。ハリエット誕生、という場面でした。
橋で待ち受ける奴隷主に協力していた奴隷狩りを生業とする自由黒人の1人が
これを見ていて、ハリエットの味方になりその後の奴隷救出を助けるという
神がかったハリエットを描くシーンでもありました。

実際がどうだったのかはわかりませんが、彼女の奴隷救出の実績を見ると、
何か神がかった力があったのではないか、と思うのも理解できます。
勘がものすごくよかった、ということかもしれません。

もう1人、印象的な登場人物がいました。
ハリエットを支援して住む場所を提供し、
自由黒人としての振る舞いを教えてくれた宿屋の主人マリー。
Hidden Figuresでメアリーを演じていたジャネール・モネイが演じています。

マリーは自由黒人として生まれ、
激しい迫害や暴力を受けたことなく育ったのですが、
終盤、逃亡奴隷法が成立し、ハリエットを追う奴隷狩りの黒人が宿屋に来て
ハリエットの行方をマリーに問い詰めますが口を割らず、
そのまま殴り殺されてしまいます・・・。

白人に協力的に振る舞う黒人も何人か出てきて、
彼らが暴力を振るうシーンも恐ろしいのですが、
協力している間は一緒に行動していた白人の奴隷主が、
ちょっと意に沿わないと感じると簡単に彼らを殺そうとする・殺してしまう
というのも恐ろしい描写でした。結局、利用しているだけで、
同じ人間とは思っていないという様子があらわになります。

奴隷制度を描いた映画は見ていて本当に苦しい気持ちになります。
自由黒人として普通の生活をしていた黒人と
奴隷として言葉を話す家畜のような扱いを受けていた黒人。
奴隷への暴力やレイプを所有物だから当然の権利と考えていた白人と
奴隷の逃亡や解放に協力していた白人。

この違いはなんだろう。
自分がその文化の中にいたら、どう振舞ってしまうのだろう。
と、いつも考え込んでしまいます。

ナチス・ドイツのアイヒマンについてハンナ・アーレントが
特別な悪人ではなく、思考を放棄した普通の人である、
と考察した話を思い出します。
少なくとも、奴隷制度が当たり前の時代に
奴隷の救出や解放に協力していた白人は思考する人、だったのかなぁ、と。

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これまでにも奴隷制度や黒人差別を描いた映画をいくつも見てきましたが、
映画から世界史を学んでいる私にとって、
映画から理解する黒人差別、という観点でとても良い記事があったので
シェアします。

映画グリーンブックのアカデミー賞受賞について論争があったことを
この記事で知りました。単純な私は良い映画だと思っていたのですが、
確かに、白人のみで構成される受賞者の写真はとてもグロテスクです。
日本の女性活躍推進なんちゃらという政府や自治体主催の会合のほぼ全員が
中高年男性で構成されている写真を見た時と同じ気持ち。

ツイッターで米国の黒人差別について多くの情報が流れてくる今日この頃。
ぼんやりと思考を放棄していると、いつの間にか差別に加担してしまうことを
意識しなければと思います。

構造的な差別、って本当に理解が難しいのですが、
例えば、絆創膏やトウシューズが多様な肌色に対応した製品を出すとか。
色鉛筆の肌色という表記をやめるとか。オコエ瑠偉選手が小さいときに
その「肌色」ではないことでいじめられた経験を書いていました。

作り手は差別しているつもりはないとか、商業的な効率化だとか、
そういう意見も読みましたが、なんでしょうね、
あなたは対象外ですよって正面切って言われてるあの感じ、
当事者であれば、とても傷つくと思います。

そして、私はそのことに、誰かが傷ついていることに気づいていませんでした。
それを望む誰かのための肌色がないことに気付かなかった自分のことを忘れずに、
多様な意見に耳を傾け、情報に目を向け、
自身の認識の誤りに気付いたら修正する。
ということを続けていかなくてはいけないな、と思いました。

学生時代にハラスメント被害の当事者として声をあげたことがあり、
そのことで失ったものがあまりにも大きくて、
もう生涯二度と声を上げることはしない、と決めているのですが、
当時の経験として、黙っていることは加害者に加担することと同じ
という認識はあるので、こうやって少しずつ表現することは
続けていこうかなと思っています。

とても励みになります。