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わたしの体調がおかしくなった経緯、その1

誰かに聞いてほしいおはなし、勝手に吐き出したい自分の生い立ち。

中学まで

わたしは大阪府で生まれ、高知県へ引っ越し、高知の小学校を卒業し、そのまま高知の公立中学校へ進学した。

その中学校は数年前までヤンキー中学として有名だったところで、わたしの従兄はわたしが入学する3、4年前のヤンキーたちのリーダー的存在だったそうだ。従兄の時代は1日に1回は窓ガラスが割れ、廊下をバイクでかっ飛ばすような人たちが普通にいたらしい。
そういう噂を聞いてか、小学校の同級生たちはほとんどが中学受験をし、同じ小学校でその公立中に入学した子は1、2割程度しかいなかった。

そんなことを知らないわたしは普通に(家にお金がなかったこともあり)その中学に入った。
従兄の代が卒業してから同校のヤンキー的性格はかなり落ち着いたらしく、わたしたちの代は普通とも言える代であった。

授業は聞いていなかった。小学生のときから漢検を受けることにハマっていたわたしは、何も先生の話を聞かずに漢検の勉強をしていた。当然叱られたが悪びれもしなかった。成績が良いのだから(定期テストで5教科合計460点を割ることはなかったので)勉強ができていれば良いだろう、と思っていた。先生からしてみればやりづらい生徒だったと思う。
ちなみに漢検に関しては、中2のときに準1級合格を果たした。最近勉強を再開したが、漢字の知識は当時にまだ及ばない。

友人に誘われて吹奏楽部に入った。フルートパートに熱烈歓迎を受け、どんどん辞めていく同期の中で1人フルートに残った。

体調不良の兆候


その吹奏楽部のなかで、いつの間にか派閥ができていた。

悪口を言われている同期がいた。庇えなかった。いじめられている同期がいた。庇えなかった。ひとつ上の先輩3人がパートリーダー決めで猛烈に揉めた。誰の味方もできなかったしどの先輩からも好かれていた(と思う)ので板挟みになって中2に上がるときに大泣きした。

その頃から立ちくらみと腹痛に悩まされるようになった。小児科を受診して起立性低血圧の診断を受けた。

中3に上がって、しばしの安息期間が訪れた。最高学年になって自分たちの好きにできるようになったので、抑圧されていた同期が伸び伸び活動できるようになり仲もほどほどに良くなった。
わたしは、友人が中学受験した私立中高一貫校の吹奏楽部に憧れるようになっていた。そこを受験することに決めた。
1月、早々に推薦合格を果たしたわたしは友人の勉強のサポートに回った。吹奏楽部にどうしても入りたかったので、楽器の練習をするためだけに学校に通った。

3年生の頃は、秋に熱を出すこと以外は体調面で悪いところはあまりなかった。


高校入学

晴れて中高一貫校に高校編入をしたわたしは、頭から生活の厳しさに触れることとなった。

まず、部活。高校編入で入った同期はわたし含めて2人しかいなかった。中学から一緒にやってきていた他の部員たちには当然とも言えるが既にコミュニティができていて、そこに外部生(高校編入の生徒を学校ではそう呼んだ)が入るのには相当の苦労を要した。同期があたたかく迎えてくれたことが唯一の救いだった。
また、3年間マーチング強豪校として練習してきた他部員たちに技術面でも優れるわけがなく、わたしともう1人の中途編入した同期は朝練、他の同期にレッスンを頼んでの昼練、夜練(普通の部活)をしてやっと足元に及ぶ程度の実力であった。井の中の蛙を痛感した。

そして、勉強面。中学からエスカレーターで入ってきたクラスは中学のときから高校の範囲に入っていて、そこに追いつくために1日2時間の補習が行われた。当然のように上級の授業を受け、当然のように大量の宿題が出された。ドロップアウトするクラスメイトもいた。

1年生当時の生活リズムは成長期とは思えないほど忙しかった。
朝4時半〜5時に起き、宿題をギリギリで終わらせて7時前に朝練に行く。9時から昼まで授業を受けて、爆速で昼食を済ませてマーチングの昼練。チャイムが鳴ると同時に5時間目に滑り込み、6時間目が終わってからも高校編入者を対象とした補習が2時間。その間にもエスカレーター生は楽器の練習をしている。そこから部活に行き、19時半かそこらまで練習をしたのち帰り、着替えたり夕食を食べたりする元気もなくいったんベッドに倒れ込んで1日が強制終了する。2時間ほど寝てハッと目を覚まし、夕食と風呂を無理やり詰め込んでもう一度床につく。
眠すぎて補習の時間に居眠りして、古典の先生に教卓をぶっ叩かれて叱られたこと。
あまりにもマーチングが出来なさすぎて、ひとつ上の先輩に名指しであなた出来ていないよちゃんとやって、とキツく言われたこと。
これらは今でも覚えている。

もともと体力がなくてロングスリーパーだったわたしにはきつかったのだと思う。その頃から。
でも楽しかった。その頃は。

高校2年生に上がるときに、特進クラスへの昇級が決まった。国語で学年1位を取ることもあったわたしを入れることはほぼ確定だったようだった。
高2に上がる頃には中途編入生の補習も終わり、昼練をするほどだったマーチング技術の差も縮まり昼練がなくなり、少しだけ生活時間に余裕ができた。
そのまま半年ほどを過ごした。

おかしくなった

心身に違和感を覚えたのは、例によって秋頃だった。
夕食を摂る暇もないほどに寝てしまうことが増えた。当然痩せた。というか痩けた。
授業中に勝手に涙が出てくることが増えた。寝たくないのに寝てしまうことも増えた。泣いていることを悟られたくなくて寝たふりをすることもあった。

決定的だったひとつは、ある日家に帰ったとき。
家の前に大きな蛾が止まっていた。普段なら、正常なわたしなら、そ〜っと通るか頑張って逃がすか、何かできていたと思う。
そのときは無理だった。階段の前で泣いて泣き叫んで親を呼んだ。家に入ってからも泣き喚くのを止めることができなかった。床に伏して泣いた。一生分の涙が出るのではないかと思った。母親はひとりでテレビを見ていた。わたしには知らん振りをしているように感じられた。

決定的だったふたつめは、修学旅行のとき。
ディズニーランドに行った。仲の良かった友人とずっと2人で過ごしていた。自由時間が終わって学年全員が集合したとき、過呼吸に襲われた。一緒だった友人が側についてくれておろおろしているのがわかった。申し訳なさでさらに息が苦しくなった。
ひとり隔離されて、保健室の先生とタクシーでホテルに帰った。何の話をしたかは覚えていないけれど、先生は慣れていたと思うので水を買ってくれたり側についてくれたりした。

そのあたりで、病院にかかりたいと思った。親に何度も言った。ひどい状態のなかで体感的には1ヶ月待って、ようやく母は街の神経内科に連れて行ってくれた。
母親は(今思うと)祖父母が出してくれている学費のこともあったのか、わたしを無理やりにでも学校へ行かせようとした。朝泣いて拒否するわたしを車に乗せて門の前に降ろそうとした。想像すると滑稽だが、わたしは嫌すぎて後部座席の下に隠れていたこともあった。

そんな状態で下されたのは、自律神経失調症の診断だった。
納得がいった。自分の状態に名前がつくことを望んでいた。

胃が気持ち悪くて、痛くて、内科を受診した。自分の状態に名前がつくことを望んで。死ぬ思いをして胃カメラを飲んでまで医者に言われたのは「何も異状がない、本当に痛いの? 仮病じゃないの?」だった。
いまは機能性ディスペプシア(神経性胃腸炎)であることがわかっているので落ち着いていられるけれど、その当時は死のうかと思った。


進学を決めるまで

わたしはほぼ保健室登校になった。
大学への進学は諦めたくなかったが、体調や精神状態を考えると高校に通い続けることはどう考えても無理だった。
でも、部活は最後までやりたかった。

以上のことから、高校3年生に上がって部活を引退すると同時に高校を中退した。
そこからはもう、それまでと比べると悠々自適に過ごした。
自称進学校の名どおり、高2までにほとんどの勉強範囲が終わっていたことは救いだった。夏に日本史のみの受験で高卒認定試験をパスした。

そこから、進学する大学を選び始めた。どうしても関西に戻りたくて、関西で国公立を探した。京大か阪大に行きたかったけれど、勉強できない精神状態で受かるとは思えなかったので他を探した。京都、奈良の国公立大学のオープンキャンパスや大学見学をしに行って、京都と奈良は夏が暑すぎて自分には過ごしづらいことがわかったので、最終的に大阪市立大学に焦点を絞った。当時興味があった日本語についての言語学的アプローチができそうだったのも理由のひとつだった。

初秋から少しだけ勉強を再開した。昼に図書館に行って問題集を10ページくらい進める程度の牛の歩みだったけれど。
どうしても家を離れたい。どうしても親から離れたい。それが動機だった。

センター試験を受けに行ったときに久しぶりに高校の同級生と会ったのだが、応援しに来たと思われていてまさかわたしも受けるとは思われていなかったことが個人的には面白かった。

そして、冬、滑り止めの関西学院大学と本命の大阪市立大学、どちらにも合格した。

そのときは晴れ晴れとした大学生活が待っているものだと思っていた。

長いのでいったん切ります。

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