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たった一人のひと

出合えただけでじゅうぶんだった。
ほんとはそうだったと思う。
その人と出合えたことは、私はもっと私を表現して生きようというひそかな決心に繋がった。

それは自分でもびっくりするくらいの、自分の内側から湧き上がる感情だった。圧倒的だった。
この人っていう存在が、たとえ人間じゃなくてもすきだっただろうなと思った。
禁断の恋みたいな話ではない。
私はその人に出合って初めて、小説「陽だまりの彼女」の主人公のラストシーンの気持ちが理解できた気がしたし、ジブリ作品「千と千尋の神隠し」のハクが人間でなくても千尋との間に絆が生まれたことが腑に落ちた。

たとえば夕焼け空とか、澄んだ海とか、風に揺れる緑を見たときの嬉しさのように。
たとえばすぐに散ってしまう満開を見上げるときの幸福のように。

そうだ、桜とおんなじくらいに。桜とおんなじように。

その人の存在が、生き様が、私に教えてくれたことがたくさんある。
だからもう、じゅうぶんだったはずなのに。

縁を切られたんだ。
そう思ってしまうようなできごとがあった。
なんでだろう。なんでこんなことが起こるんだろう。
気持ちを押し付けたつもりはなかったけど、私の言葉とか態度が重たかったのかもしれない。
知らないうちに傷つけることがあったのかもしれない。
すきになっては、仲良くなりたいと願ってはいけなかったのかもしれない。

わからない。けど、拒否されていると感じながらボールを投げ続けることは怖くてできなかった。
悲しい気持ちで、でも私は私で前に進もうとしてきた。

別にもう平気だよ気にしてないよ、だって出合えただけで十分ラッキーだったんだから。
という物分かりの良さは、長年の自分の思考のクセだよなって、今になって改めて思う。

じゅうぶんなんかじゃないよ。
だって、私は私の気持ちを言えてない。
一番言いたいありがとうも言えてない。
向こうにしたら重いかもしれない。なんでそこまで想うのって思うかもしれない。
なんでそこまで。
そんなの知らない。
説明できるような感情だったら、こんなに心が震えてなんかいない。

君は、私にとってたった一人のひとだから。
お互いの旅の中のたった一瞬でも、特別な出合いだったから。
どうか、もう一度ボールを投げる前に、ありがとうって伝える前に、この世界からいなくなったりしないでね。


・・・・・・・・・


誰だって、いつ会えなくなるか分からない。
この春身に染みて感じたはずなのに、すぐに忘れてしまったりする。
(ほんとは誰もがたった一人の存在で、代わりのいない存在ということも。)
そんで、あぁ今度でいいやとか、今は疲れてるからいいやとか、適当に今を過ごしてしまったりする。

なんだけど、私はちゃんと、伝えたいことを伝えるために言葉を使えている?
ちゃんと、私の声を聞くことができてる?
ときどき立ち止まって見つめてみないと、分からなくなるなぁと思い、今日の文章を書きました。

「縁を切られた」と私が感じた出来事については、きっと私や相手のどちらかが悪いわけではなく…ただ私はそう感じてしまい悲しかった、というのが私に分かることです。もしかしたら相手にとってはそんなに大きな出来事ではなかったのかもしれないし(それはそれで温度差がものすごい)。
相手の気持ちとかペースを尊重したいとも思いつつ。
一人で考えて分かるのって自分の気持ちだけなんですよね。

しかし!こうして書いてみると、読む人にはちょっとこわいかもなとも思ったりします。やはり、誰かへの強い気持ちというのは。
そんでもって。もし万が一本人が読むことがあったら本当に嫌がられるんじゃないか、と思ってしまう。自意識過剰だけど。こんなふうに書く前に言いたいこと直接言えよと(でもそれができたら書いてない)。
他の人には重たくならずにボールを投げられるのにね。
無邪気にいれたらいいのにな。

だけど、相手が人間じゃなくてもすき、というのは正直な気持ちです。
自分でもそう感じたことが不思議で、新しい感情・感覚でした。
新しいというか、思い出したのかもしれないです。頭で考えるのとは違う感覚を。

世間のなんとなくの常識とか、こうあるべきとか(たとえば大人はそんな実にならない感情に振り回されずに冷静でいるべきとか)、そういうのに合わせるよりも、私は私の感じたことを大切にしていよう。
だって私の人生なんだから。

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