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サヌキ(男性性)とアワ(女性性)の話その1)

今回は、長年の念願だったカタカムナのお話を
板垣昭子さんに聞いて
私の中の『サヌキ女』
つまり男性性優位のおとこ勝りの女の部分が
解けて、溶けた話。
これまで人生の半分をかけても扱いかねていた
自分の中の半分のおさめどころがやっと見つかり、
長年成仏できなかった自分の中の幽霊のような
部分が浮かばれたような体験をした。

『頑張りすぎてしまう』
『一目を気にしてしまう』
『頭で考えすぎて、一歩が踏み出せない』
『いい子で生きてきたが、今一つ、幸せ感をあじわえていない』
心の中に、こんな浮かばれない気持ちを持っているあなた。
古代のカタカムナが伝える
『サヌキ』(男性性)と『アワ』(女性性)の話。
心のざわつき静まります

古代文字カタカムナとは?

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ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト
アウノスヘシレ カタチサキ
ソラニモロケセ ユヱヌオヲ
ハエツヰネホン カタカムナ

アマの本来性は、
ヒフミヨイ(正)、ムナヤコト(反)の
旋転(マワリテ・球性)循環(メグル・渦流性)にあり
それは極限(ヤ)までくり返し(コト・周期性)続くものである。
そして重合互換(アウノスベシレ・統合)、
分化(カタチサキ・微分)、還元(ソラニモロケセ・崩壊)も
そのアマの本来性に基づく自然則であって、理屈ではない(ユヱヌオヲ)。
それが万物万象にうけつがれて、すべてのものが発生(ハエツ)するが
その根源(ヰネホン)は、片々(カタ)の潜象(カムナ・アマ)にある。

カタカムナは、
1949年(昭和24年)カタカムナ文字の解読者である
楢崎皐月(ならざきこうげつ)氏が
兵庫県の六甲山で、「平十字(ひらとうじ)」という
猟師風の男性に出会い
渦巻き模様の形で書かれた
ふしぎな形の文字を見せられたところから始まったとされる。

後に楢崎氏が解読したところでは、
カタカムナ文字で書かれた80首の歌の中に
宇宙の仕組みや、物質や生命のなりたち、農業の技法、
病の治し方までもが記されていたとされる
古代文字なのだそうだ。

日本語の一音一音は、
物事の本質的な意味と結びついた『音』から
成り立っているとされる。
そして、カタカムナという言葉の意味も、
物事の本質は、目に見える現象の世界ではなく
見えない世界の潜象(せんしょう)のほうに
あるのだという意味に
なるのだそうだ。

詳しくは、板垣昭子さんの著書を参照。
『にほんごってすごい! はじめてのカタカムナ
: 超古代文字が教えてくれるサヌキ【男】アワ【女】
しあわせの智恵



目的に向かって突き進むサヌキ:男性性のチカラ

何かをしたいという意欲をもち、
目的に向かって突き進む力。

自分らしさを貫き、外へ表し、
表現したいという性質もまた、
サヌキの性質から発しているという。

また、相似象学の考えでは、
『現象界に現れて 
”ヤ”(極限・方和・安定・飽和)まで進行するチカラ』
とも
説明されている。
ここで言う、男性性という言葉は
男性の性質を表しているのではなく、
男性にも女性にも備わっているベクトルの方向性の異なる
性質のことだととらえるとわかりやすい。
板垣昭子さんの著書より引用させていただいた
木の図で言えば、
地上から見えている幹や枝葉の部分にあたる。
このため、
サヌキは、直線的で見える世界での強い力を持っているが
アワとのかかわりがないと
それ自体がきりはなされていると
枯れて行ってしまう。


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上の図は、『日本語ってすごい!初めてのカタカムナ』板垣昭子著より。

命のチカラをあらわすアワ:女性性のチカラ

一方で、アワは、上の木の図で言えば
土の下に隠れて見えない部分である。
個人の生命を、民族の生命を、そして人類の社会を
健やかにまっとうさせるものがアワのチカラとされている。

そして、
形に現れる前の世界・潜象(先勝)の世界。
見えないものを感じ取る感性や感受性。
人間という種を超えて、自然とつながる力をも
含んだイノチそのもののチカラでもある。

アワのもう一つ大きな特徴は、
潜在的な意識や、無意識につながることで
循環するエネルギー。
つまり自らのチカラを回復することができる、
充電器のようなエネルギーであるということ。


サヌキが目的をもって伸びていく
直線的なエネルギーであらわされるのに対して、
アワは、波うち、包み込む
曲線的なエネルギーでもある。


サヌキとアワ四相の考えとアワ枯渇の危機。

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さて、本番はここからである。
カタカムナの考えでは、コミュニティーや集団としての部族が
生き延びるために
『サヌキ』と『アワ』の分量がそれぞれ違う
4つ多様性があるというのだ。
★サヌキ男 男性の中でもサヌキの性質の強い人。
★アワ男  男性だけれども、アワの性質が強い。
      理解的、客観的。受容性多め。
★サヌキ男 女性でもサヌキの性質が強い。理性的。
★アワ女  女性の中でもおっとりタイプ。感性の人。

ここで大切なのは、このバリエーションが全体のために
役立ち必要だったということである。
この四相の人が互いに違いを知り、
それぞれのかかわりの中で社会が循環していくはずなのだ。

しかし、戦後の日本は、
『見えないもの=ない。
 あってはならない。とりあつかってはならない。』
というような社会ではなかっただろうか。
数学で言うならば、+と+の座標で第一象限
目に見える現象のみが対象とされるべき価値観。
見えるものの所有量。見える世界での作業量。
言語化できる知識。再現性のある実験での評価といとまがない。

この結果、上の四相のいずれの人の中にも
本来あるはずのアワの量が過小評価され、すり減っている。
つまり、
無意識や直観という世界から絶え間なく送られてくる
サインや感覚は、
受け手である人間の事情で、
存在しないことにされている状態ともいえるだろう。

また
社会の評価や価値の基準が
サヌキの量や、サヌキの量で達成されたものの相対で
決まってくる仕組みがゆえに、
社会全体がサヌキに偏って変移しているともいえる。
このため、本来互いに違うアワの量を
集団でうまく共有しあって
循環するエネルギーのような智慧、
智慧の源である充電器としてのエネルギーが
枯渇しているというのだ。


*世の平和は、サヌキ女のアワの量を増やすことから!?

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現代という時代に
生まれ落ちた後に身についけて来た『理屈の世界』の窮屈さ。
それゆえ
一人の穏やかな豊穣な女として存在できなかった
あがきのようなもの。
古代文字であるカタカムナの世界が説く
『サヌキ』と『アワ』の役割と
アワ枯渇の現代事情を聴いてストーンと腑に落ちた。

板垣昭子さん曰く大切なのは、
『サヌキがちな現代社会では難しいのは、承知だけれど、
アワ=女性自体に元気でいてもらう必要がある。
できるだけ休養を取って、ぐっすりと眠り、エネルギーを補給すること。
そして、自然やかわいい生き物に触れて「アースできる」
状況がかかせない』
のだそうだ。

ここで、『アースできる』ってところがカギだと思う。
サヌキ優位の理屈の世界の行き詰まりを
本来のイノチのエネルギーであるところに触れて
たまりたまった矛盾のエネルギーを放電し
そして充電するイメージといったらいいだろうか。

でも、これは実はとても大きな話につながっている。
本来は、天然の充電器で近くのものに
いのち本来のエネルギーを与え、循環させていくべき
アワの成分であるはずの女の人のエネルギーが枯渇していたとしたら?
サヌキ成分優位の世界では、
根っこからきりはなされているのだから、
何とかどこかから、エネルギーを奪ってこなくてはならなくなる。

これは、
パートナーとの関係でも
家という小さな単位でも同じ。
そして、エネルギーの小さな渦でおきることは、
大きな目で見れば、大きな集団でも起きる。

小さな単位でうまくアワが循環しながら
社会が成り立っていくためには、アワがアワのたくわえ場所に
しっかりと充電されていないとならないんだ。

あなたが感じる『しんどさ。』
『行き詰まり感。』
『頑張りすぎて、でもこれじゃない。。。。』
自分という器の中に宿るアワのチカラを思い出して
アースしてみませんか?
そしてあなた自身が実は、いのちのエネルギーを循環させる
充電器だったことを思い出してみてください。
そうすると、
一人のしんどさを解放するだけではなく、
あなたの周りの人の幸せ感や
マワリテメクルいのちのエネルギーをも
運ぶ大事な役割が働きだすようです。

ああ、それにしてもこの話。
20代の後半に出会っていれば
私の人生とその途中で出会った人たちは
ぐっと豊かにすごすことができたであろうに。。。。

時代を生き延びるために
自ら砥いだ長いサヌキ(論理性・合理性)の刃は、
世の中を渡ってゆく剣として役に立った半面、
私生活では
近くの人を不用意に切りつけた。
傷つけてきた。
近い人にとってこそ、良く切れる刃としてだ。

ひとたび研ぎ澄ましてなまじ切れる刀を得た後は、
その矛先を探しきれずに
おさめどころを探した30代40代。


無意識のなかでは 
ふつふつと大きくなる潜在的な声を感じつつも、
受け止めきれないがゆえに、
遠回りをし、道に迷い、抗い、疲弊した。


サヌキ女であったとしても
自ら充電器の役割として
循環させるエネルギーの器として認識していたならば、
もっと深く、自分の中に降りてゆき、
もっと早くに、
命を迎えることに本気で取り組むことができたであろう。


今の時代、
女性が子供を持つも持たないも自由。
パートナーを作るも作らないも、自由。
理屈の上では、
あふれんほどの自由な選択が可能な時代にあって
迷っているうちに女性の30代40代は
あっという間に駆け足で過ぎてゆく。

長い刀を振りかざすように戦っていた
20代、30代。
こんなスケールの大きな視野から
自分を生きることが、ひいては、
全体の調和にも循環にもつながるという話に
出会いたかったとしみじみ思う話であった。


この話、どうやら次は、
次に移り変わる文明の話とも結びついている。
その話はまた次回。
長い話最後までよんでくださってありがとう。










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