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この世で1番、幸せな国 

実家に帰ると、幸せな気持ちになる。

今までは「実家だから」「落ち着くから」、だから幸せな気持ちになるんだろうなくらいにしか思っていなかったけど、今回お盆に帰省して気付いたことがある。
我が家では毎回「ありがとう合戦」が起こるから、幸せな気持ちになるのだと思う。

私の実家はお金持ちでもないし、継ぐような家業があるわけでもない。田舎の小さな家に、両親が2人で住んでおり、この「ありがとう合戦」は毎日行われている。

父は夜、眠る前、
「お母さん、今日もいっぱい遊んでくれてありがとう!」
と言う。すると母が
「どういたしまして、お父さんが元気でいてくれるおかげだよ」
と答える。

毎回こうなので今まで特に違和感を感じたことはなかったが、よく考えたら「今日もいっぱい遊んでくれてありがとう」ってすごいセリフだ。犬が飼い主にいうヤツじゃん。可愛すぎる。

多分、働いてくれていた頃は「今日も1日、労働ご苦労様でした!」「ヨッ!労働者!お疲れ様でした!」とか言い合ってた気がする。
定年退職したので「遊んでくれてありがとう」に進化したらしい。あまりにも幸福度指数が高過ぎる。ムーミン谷か。

私のお父さんは昔から確かに感謝厨だった。
ことあるごとに「ありがとうねぇ」と言ってくれる。
歳をとると本来の性格がより顕著になるとよく聞くが、お父さんは歳をとってより感謝をしまくるようになった。奇跡的に、根っから優しいのだ。そんな人間を、私はお父さん以外見たことがない。

そしてまたお母さんもだ。
普段はパキパキ動いていて、気も強いし、せっかち故に言葉もキツいが「ありがとうね」がめちゃくちゃ多い。というか、絶えない。
似たもの夫婦なのか、似てきたのか、経緯はわからないが、この2人は常にお互いに感謝を伝え合うのが習慣化されているので、実家に帰るとおのずの私もこの「ありがとう合戦」に参戦することになる。

両親に新しいスマホを買ってあげて、帰省したタイミングで設定してあげたところ、私にはもちろん「自分じゃ1日かかっちゃうよ、わざわざありがとうね!助かったわー!」と言ってくれるし、
「お母さん、こんないい娘を産んでくれてありがとう!」と父は言う。
すると母は「なーに、お父さんが育ててくれたからでしょー!」と答える。
なんなら私に対する感謝より、父と母の間で行き来している感謝の方が量としては多い。
スマホの設定をしてあげただけなのに、出産、育児、教育に関する感謝まで持ち出してきて、家庭内に大量の感謝が飛び交っている。これはどうりで幸せになる。


今年のお盆は、両親と兄夫婦と私の5人で旅行へ行った。
当然色んな出来事があって楽しい旅だったんだけど、1番印象に残ったのが帰り道だった。

特別混んでた訳ではなかったけど、こういう時でもなんとなくお父さんが道を譲ってあげていると、それを見たせっかちな母が「なんでそんな譲るのさ?!」とキレ気味に言って、「まぁまぁいいじゃない、一台くらい。」と安全運転第一派の父が答えた。

そしたらしばらくして、一本しかない山道で正面衝突の大事故が起きた。私たちの目の前だった。ぶつかった車はタイヤが変な方向に向いていて、エアバッグが盛大に開いていた。

幸い誰もケガしていなくて、運転していたおじさんが、警察の指示通り写真を撮ったりしてから、散らばった破片を片付けている。
20分くらいで現場は片付いて、動かせそうな方の車をみんなで押して、どうにか道を空けた。


あの時、先に一台車に道を譲っていなかったら、ぶつかっていたのは私達の車だったかもしれない。そう考えるとゾッとする。

事故なんて目の前で見た事がなかったから心臓がバクバクしてしまって、みんなで「怖かったね〜」「ゆっくりでいいから気を付けて帰ろうね」と声を掛け合って帰った。
そんな時もありがとう合戦は開幕する。


「あの時、せかせかしないで車を先に行かせてあげたから事故に遭わないで済んだんだよ、お父さんありがとう〜」
からの、
「いや、さっき休憩した時、お兄ちゃんがトイレ行ったじゃない。そのおかげだよ、ありがとう。」
からの
「あんたがソフトクリームゆっくり食べてたから事故に遭わなかったんだよ。ありがとうね」からの
「てかもう1箇所観光するの諦めてよかったよね、もし行ってたらあの大渋滞で、今日家帰れなかったかもよ?!ナイスジャッジだった、ありがとう!」
などと、5人がそれぞれの理由を見つけて来て、事故に遭わなかったのはみんなのおかげ、無事でよかった、ありがとう!と言いまくり、
バタフライエフェクトだね、と言って笑った。

本当にそう。
旅行の1日目は台風の影響で雨が降っていたけど、そのおかげで全然渋滞がなかった。ありがとう。
2日目は快晴で、綺麗な景色を見る事ができたし、これはみんなの日頃の行いのおかげ。みんなありがとう。
3日目は、せかせかしないで車を先に行かせてあげて、のんびりトイレに行って、のんびりアイスを食べて、疲れたから1箇所観光を諦めたおかげで、事故にも遭わず、渋滞の後列で苦しむこともなく無事に帰宅できた、ありがとう!

『物は考えよう』とよく言うけど、本当にその通りだと思った。
そして、ありがとう、どういたしまして、みんなのおかげだよ、という、この「圧倒的感謝の量」……昔は何とも思わなかったが、こんなにありがとうが飛び交う空間は、自分の実家しかない。
社会に出て、東京に出て、色んな人と、色んな空間に行ったけど、世界で1番幸せな国は、自分の実家なんだと感じた。

家庭は、小さな国家。

家には家のルールがある。大なり小なりみんなあると思う。それが我が家では「おはようこんちわ、ごめんねありがとうはちゃんと言え」だった。
同じ屋根の下に暮らしている限り、おはようとかおやすみとか、そういう挨拶は必ずしなさいと言う意味だ。
というか当たり前のようにしていたし、言わないと気持ち悪い。同じように、ごめんねとありがとうも、思った時言えないと気持ち悪くて落ち着かなくなる。
この習慣の行き着く先が「ありがとう合戦」だったのだと思う。

会社は利益を出す場所だから、当然優しい気持ちだけでは成り立たないし、都会は優しい気持ちを搾取する人が沢山いる。
どういうわけか優しさはお金になんかならないし、どちらかというと損をしてばかりだ。ナメられるし、雑に扱われるし、優しいからという理由で、なんでこんな事言われなきゃならないんだと思う事がしょっちゅうある。

でも、実家に帰って両親のありがとう合戦を見ると、「優しさには絶対に価値がある」と思える。そう信じられる。
優しい人が損をしない、無駄に傷付かない世界が、確実に存在しているのが目に見えるからだ。

私はバツイチで、結婚をしたら、自然にこういう家庭が作れるのだと、家庭というのはこういうのが当たり前なのだと本気で思っていた。幸せな国で育ったから、そうじゃない国を知らないのだ。
私は森で生まれ、無知だった。

私はビーム…
引用元:RRR


ありがとう合戦は一方通行では成り立たないし、世の中には人の優しさや感謝の上にあぐらをかき、当たり前だ、もっとよこせ、この暮らしが出来るのは、俺のおかげだ!と言い切る人がいるということを、私は知らなかったのだ。

「私が優しく生きられるのは、〇〇相手のおかげです」という姿勢をしていれば、相手も同じ姿勢になるのだとずっと信じていたが、悲しいことにそうではなかった。一歩国の外に出たら他の国のルールがあるし、そもそもルールというのは当事者が作っていく物なので、民主主義の心がないと成り立たない。結婚したら自ずと独裁政権になると勘違いしている男がこの世には多過ぎる。
みたいな話を父にしたら、

「そうだね、男の人はそんなものなのかもしれないね。でも俺はお母さんの独裁政権下で統治されてるのが幸せだから、うちは別に民主主義じゃないよ。笑」
と言っていた。完全に国家の犬になっているが、よく考えたら昔からこうだった。

「相手のおかげ、と思えることはいい事だけど、自分のことを下に見る必要はないんじゃない?お母さんを見てみなよ、私のおかげで世界が動いてるのよ!ってくらい気ぃ強いよ?!」
と言っていた。

やはり、女が強い家は幸せだ。
クソデカ主語で申し訳ないが、これは真実だと思う。
女が三つ指付いて謙遜してる家は、たいてい不幸だ。窮屈で、堅苦しく、古き良き奴隷制度で成り立っていているからだ。男は偉そうで、食器の一つも下げたりしない。それが威厳なら、クソ喰らえと思う。

逆に、女が生き生きしてる家は自由だ。明るく楽しく賑やかで、いつも笑い声が絶えない。そういう家にいる男の人は、それを幸せそうに見守っていてくれる。その優しさに女は敬意を払うのだ。

いまの一人暮らしの狭い部屋に、ありがとう合戦をする相手はいないけど、

関わる全ての人にありがとうを伝えることで、私は私なりの、幸せな国を作っていくことが出来るといいな。諦めずに、というか懲りずに、優しい気持ちを忘れないで生きていたい。


優しさは、巡り巡って必ず自分に帰ってくる。
自分じゃなくても、自分の大切な人のところへ帰ってくることもある。
「だからワリィことしないで、あんたはあんたのまんまいれば大丈夫よ」と言ってくれた両親を見て、

「親ガチャ大成功だね」と、ふざけて言ったら、
「子ガチャも大成功よ」と母が笑った。

私は、この世で1番幸せな国に生まれたと思う。


このお金で一緒に焼肉行こ〜