美容室に行きたいけど行けない

髪が伸びてきたので、そろそろ髪を切りにいかなければと思ってから1ヶ月が経った。
夏の暑さが頭皮を熱し、頭皮から玉のような汗が噴出し、さらに蒸すような熱が長い髪で蓋をされるような感覚がたまらなく不快だ。
このような状態を解決すべく、とっとと散髪に行きたいところだが、なかなか美容室へ向かう気力が湧いてこない。
地元に一件だけ個人経営の床屋があるが、そこは高校生卒業まで通っていた床屋で、高校を卒業して都会に出てからは一度も行っていない。
そのうえ地元は人の少ない田舎なので、床屋の主人は僕の存在をもちろん知っている。
ましてや、その床屋にまた行くことになれば必ず、都会に出てからのことを散髪中の話題として用いることになると思う。
自分は地元に嫌気がさし、都会に憧れを抱いて高校卒業してすぐ都会へ出た。
都会ではいろんな人が干渉しすぎず、また干渉しなすぎずの程よい距離感でお互いの仕事やプライベートを高め合っていたが、そんな都会でも元来偏屈な自分は、地元で固まってしまった人への偏見を変えられず、人の価値観の差を認めきれず、都会へ出ても、ただの変な頑固者として浮き上がりさらに協調性にもかけたこともあって居場所がなくなり、体調を崩して、また地元へ帰ってきた。
今のところ、今までのことを人に話すのは恥ずかしさだけが残り誇れるものは何一つない状況だ。
この状態では、床屋の主人に髪を切ってもらう以前に、主人に顔を合わせるだけでも恥ずかしくなり消えてしまいたい衝動にかられると思う。
なので地元の床屋へは行かない。
あえて車で1時間ほどの美容室に最近は通っていたが、この美容室の美容師は、少しでも沈黙ができると客のパーソナルな部分に簡単に足を踏み入れてくる。
「今日はお休みですか。」が良い例だ。
もしも「無職です。」と鼻を高くして言ったらこの美容師はどんな反応を示すのか非常に気になる。
きっと「そうなんですね。」で話が終わり美容師が1番嫌う沈黙の深淵を垣間見ることになると思う。
なのでこちらも一応気を使い、調理をしているが休職中という設定で会話をするようにしている。
そうすれば美容師もわからないなりの質問をこちらに飛ばしてくるし、こちらもわからないなりに料理の適当な、あるか無いか定かではない知識をオリジナリティ溢れる用語で返す。
1番の出来の良かった返答はこんにゃくの味の染み込む切り方は短冊切りが人気だが、個人的には「木綿切り」が良いと言った時だ。
美容師は「へえ、そうなんですね」と知った被ったような返事をしていたが、その時にこの嘘をついていけばこの会話を続けられるという自信がついた。
なぜなら、そもそも「木綿切り」など存在しないのだ。食材に付随する単語のインスピレーションで「木綿」という単語をそのまま「切り」と繋げただけの簡単につける嘘で、この頭の芯まで働かせているかどうかわからない会話を乗り越えたのだ。
そうして約2年近く嘘の会話で、この美容師と向き合ってきたが、ここ最近なんだか嘘をつき過ぎた気がしてならない。
そうしてついてきた嘘が美容師に嘘だとバレているのではないかと思い怖くなってきた。
2ヶ月前に美容室に行ったのだが、頭を洗ってもらっている時に少し美容師の笑い声がした。
その笑いの意図を考えるてみると、もしかすると美容師に「ホラ吹き料理人」が来た、という合図を他の美容師同士で共有し合い、それで笑われているのではないかと思うようになった。
これが真実だったら恐ろしいことだ、ずっと騙しているつもりがずっと美容師の手のひらで踊らされていたことになる。
自分は美容師を騙し、美容師は自分に騙されたふりをする。
究極の心理戦。スパイゲーム。ライアーゲーム。とでも言おうか。そんな戦いが始まってしまっている気が頭を洗われている時にしたのだ。
しかし、この戦いは映画の撮影でもない上、こちらには金銭も発生しない。むしろ払っているので嘘をつき続けるモチベーションがない。
ただ髪を切ってもらいたい。無理を言えばなにもパーソナルに踏み込んだ話をせずに切ってもらいたいというだけだ。
あいにく、すでに究極の嘘の戦いが始まってしまったのだから自分はもう安心して髪を切ってもらうわけにいかない。なので、この美容室とは少し時間を置いて自分の存在を美容師に忘れてもらい、時間がしばらく経って存在を忘れられてから、また自分が新規の客として通わせてもらうための調整期間を設けさせてもらうことにした。
なので現在、髪が過去最高に伸びている。
嘘のつかない生活をしたい。

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