芸術にあたるということ②

宮沢賢治「イギリス海岸」を読んで

 賢治の時代から、件のイギリス海岸の白い地層が与える印象はさほど変わっていないように思う。地球の歳月と人の間の歳月とは、比べようがないくらいに挟まっている時間の収縮度が違うのだから、驚くことではない。それでも、多少なりとも似たものを共有できるということは嬉しいものだ。
 石巻の学校を比較対象に持ってくるあたり、イギリス海岸は花巻にとって海のような存在でありながら川遊びができる格好の場所だったようだ。また、文中で特徴的なのがなにかの発見を「遊ぶ」と形容していることである。学びのための天然の教科書でもあったようだ。
 発見や観測は地質にとどまらず、そこに集まってくる人々にまで及んだ。勿論この話自体が架空のものである可能性は否定できないが、子供たちや兵隊、「水泳で子供らの溺れるのを助けるために雇はれてゐる」男が事細かに描かれているは、やはりどこかで目にしたり身近な出来事の一部であったからに違いない。
 話の内容については、一読に限れば山なしオチなし意味なしのように思われ、さらに終わりの方に「そこで正直を申しますと、この小さな「イギリス海岸」の原稿は八月六日あの足あとを見つける前の日の晩宿直室で半分書いたのです(中略)あとは勝手に私の空想を書いて行かうと思ってゐたのです。」(筑摩書房『宮沢賢治全集6』1986年5月27日 P346 )と書いてあり、どのような心持ちで受け入れれば良いのか分からなくなってしまう。
 しかし決して面白くない訳では無く、夏の間に何度も訪れてしまって泳ぎ疲れる様子に、あるあると共感の相槌を打ってしまったり、遊びから本当に「遊び」になってしまったことに驚いたりと、突飛でないからこそ穏やかに親しむことができるのだ。
 これらのように考えると、「イギリス海岸」は宮沢賢治が残しておきたかった(または無意識的に残してしまった)日常の切り取りなのだと思われて仕方がない。

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