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何が違うの?

作文指導教室は、学習塾やそれに類似したところと何が違うのか。そんなことについてstand fmで話をした。違いはもちろんたくさんあるけれど、今回は2つのことを取り上げた。noteでもその内容を残しておく。といっても、放送内容とはちょっと違うものになるけれど。
放送はこちら→https://stand.fm/episodes/6253e7a228a01a00068f6ab2

書くことは考えや体験を再構築すること

哲学カフェや読書会。どの考えが正しいと決めるのではなく、それぞれが考えたこと、感じたことを伝えあう場が、以前より増えたように思う。しかもそれが、都市部だけでなく地方でも(たとえば岐阜でも!)催されるようになった。オンラインで開催されるものもある。10年位前に調べた時には、近い場所のもので名古屋だった。当然リアルの会だ。夜の開催なので、行き帰りの時間を考えると少し迷う。知人が「本好きが本のことを思い切り話せる機会は少ないんですよ」と言っていたが、今ようやくその場が気軽に得られるようになったようだ。

「話す」良さは、自分が言葉にしにくいことがあって言いよどんでも、誰かがそれを引き継いで言い足してくれたり、より発展させてくれたりするところだ。それにより、自分の思いが明確になることもあるし、「それとはちょっと違って…」と、言えなかったものが引き出されることもある。お互いに助け合って思いが言葉になる。すっきりするし、ああいい気づきを得た!と思える。

でも、と私はつい思ってしまう。そこで「書く」が入るといいのになあ、と。「書く」となると、得た気付きをもう一度自分に引き戻すことが必要になる。新たに得た言葉を自分に戻して、文字にする。文字にするとき、まだ足りないものや新たな疑問の存在に気づく。それを「見なかった」ことにしないで、もう一度考え直して、「まとめる」のではなく「次の思考を始める」ように文章という形に落とし込んでいく。それをすることで、得た気づきがもっと大きな、もっと個人的な体験に置き換わっていく。知ったことを再構築し展開していけるのが「書く」なのだと私は思う。

だから、「話す」だけでなく、どんなに短い時間でもいいから「書く」という個人的作業が入るといいなあと思う。その気持ちが大きくなって作ったのが「18歳からの試考力を高めるオンライン講座」なのだけれど。

「どんな人か」で、人を記憶する

大手学習塾が生徒を紹介するとき、「〇〇大学に入った」「偏差値30台から70台に上がった」などの表現を用いているのをよく目にする。実際はどうなんだろう、成績で人を見ているのか、努力する姿で人を見ているのか、あるいは流れ作業的になっているのか、私にはわからない。個人の学習塾はたぶんそんなところばかりではないのだろうけれど(知り合いの学習塾はそうではないし!)、大手学習塾のチラシを目にするたびに、なんとなくため息が出る。

文章を通して人と向き合うと、成績でその人を記憶することは全くなくなる。本人が「数学で98点取った!」とか「国語で1番だった!」と報告してくれることはあるから、一緒に喜びはするけど、点数で人を記憶することは無い。悪いけれど私はすぐ忘れてしまう。

私が覚えているのは、その人が文章で見せてくれた風景だ。私は直接見ていない風景だけど、その人の目と言葉を通して見た風景の色、光、風、におい、そういうものの気配を覚えている。読解文の中で見せてくれた、切り口の鋭さや展開の妙、人間のあるべき姿を希求する姿勢、そういった「何かと向き合う姿」を覚えている。卒業して20年近く経った生徒の作文も、覚えているものは多い。この人の名作は、学校の帰り道の「うん〇の谷」と呼ばれていた土手のこととか、給食の早食い競争の熾烈な終盤戦とか、作文の内容と、原稿用紙に向かう肩の線などを、はっきりと思い出すことができる。

この点は、学習塾との明確な違いだと思う。「できた」ことで記憶しないから。逆に言えば「できなかったこと」でも記憶しないから。できる・できないではなく、その人となりを明確に記憶できる、それが文章に向き合う場所だ。指導側だけでなく、クラスのメンバー同士でも同じこと。「ああ、〇〇高校の子ね」「数学めっちゃできんかった子ね」と互いを評することはない。肩書きなどで人をジャッジしない。言葉や試考で人をとらえる。そういうことが、作文教室では起きる。

文章教室は学習塾とは違う。だから年齢に関係なく、老若男女が一緒にいて考え、伝えられる。こういう場所が、もっと増えればいいのに。増えればいいのになあ。場を設ける側も、参加する側も、楽しいところなのに。

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