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there's no one like him

DVDを買った。
ひょっとしたらこのメディアをちゃんと購入するのは、はじめてかもしれない。

■ 気狂いピエロ(PIERROT LE FOU) | J.L.ゴダール | 1965

きっかけは、ランボオである。

この前手に入れた金子光晴訳のランボオ全集を眺めているうちに、ゴダールのこの美しい映画のラストシーンに、ランボオの詩が印象的につかわれていたのを思いだしたのだ。

自分を裏切ったアンナ・カリーナ(マリアンヌ)を撃った ジャン・ポール・ベルモンド(フェルディナン)が自らのアタマをダイナマイトで吹っ飛ばし、その爆発の炎と煙をロングショットで捉えたカメラが、ゆっくりとパンして南仏の海をとらえる、彼方に青い空。

そしてその水平線にアンナ・カリーナの物憂げな声がオーヴァーラップする。

― 見つかった、
― 何が?
― 永遠が、
― 海と溶け合う太陽が。

ヌーベルヴァーグのアイコン、アンナ・カリーナ(named by ココ・シャネル)とジャン・ポール・ベルモンドが、まるでボニーとクライドのように(映画はこちらの方が後ですが)、破滅に向かって進んでいくありさまを、あのゴダールが彼一流の大胆なカットと乾いた視線で鮮やかに、そして切なく描いている。

顔に青いペンキを塗って、あれだけ否定していたピエロとして死んでいくフェルディナンの死に際が、とてつもなく愚かしく、そして心に沁みる。

「勝手にしやがれ(A bout de souffle)」とならんで、ヌーベル・ヴァーグの白眉とされる1965年のこの映画は、今見ても頭がクラクラするくらい刺激的だった。


そういえば、ランボオをモチーフにした印象的なCFもあった。

誰もいない砂漠、あるいは荒野の光景。
火を吹く大男、天使の衣裳をまとった幼女、ジャグラー、軽業師、イグアナ、そしてナイフ投げ。
フェリーニや寺山修司を連想させるサーカスの幻想的な映像に、ナレーションが重なる。

その詩人は、底知れぬ渇きをかかえて放浪をくりかえした。
限りない無邪気さから生まれた詩。
世界中の詩人たちが蒼ざめたその頃、彼は砂漠の商人。
詩なんかよりうまい酒をなどとおっしゃる。

永遠の詩人ランボオ。
あんな男、ちょっといない。

(produce by 杉山恒太郎 / art direction by 高杉治郎 / copy by 長沢岳夫 / music by Mark Goldberg)


17才のときパリ・コミューンの中で「酔いどれ船」を書き、19才で「地獄の季節」、そして恋人のヴェルレーヌとの別れ、21才で詩を捨てて放浪し、あげくアラビアで武器商人になり、37才で片足を骨肉腫で切断され、妹だけに看取られながら死んでしまった早熟の詩人ランボオ。

ヴェルレーヌだけじゃなく、中原中也も金子光晴も小林秀雄もボブ・ディランもパティ・スミスもボウイもメイプルソープもウォーホルもピカソもダリもケルアックもバロウズもヘンリー・ミラーもアナイス・ニンもピカビアも、みんなこの夭折した天才のROCKにシビれたんだ。

たとえば、こんなソネット。

母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音たちよ、
おれはいつかおまえたちのひそやかな誕生を語ろう、
A、無惨な悪臭のまわりを唸り飛ぶ、
きらめき光る蠅どもの毛むくじゃらのコルセット。

かげった入り江。 E、靄と天幕の白々とした無垢、
誇らかな氷河の槍、白い玉たち、繖形花のおののき。
I、緋の衣、吐かれた血、怒りにくるった、
あるいはまた悔悛の思いに酔った美しい唇の笑い。

U、循環期、緑の海の神々しいゆらぎ、
家畜の散らばる放牧場の平和、学究の
広い額に錬金の術が刻む小皺の平和。

O、甲高い奇怪な響きにみちた至高の喇叭
諸世界と天使たちがよぎる沈黙
―― おおオメガ、あの人の眼の紫の光線!
(粟津則雄 訳)

ランボオのこのサイケデリックで難解な詩に、アルコールや大麻やオピウムといった麻薬による覚醒の記憶があることは間違いないけれど、その言葉の一粒一粒には、十代の、それも才能のある者にしか視えない宇宙とのブルータルな交感がある。

どんな17才にだってそういう感性が宿る一瞬はあるのかもしれないけれど、それを奇跡ともいえるタイミングで引き寄せることができるのは、選ばれた者にしかできないことだ。

ROCK に殉じた Janis Joplin や Brian Jones や Jimi Hendrix や Jim Morrison のように、この19世紀のフランスの詩人 Arthur Rimbaud にも、"STONE JUNKY" の称号を与えてあげたい。

カッコいいからね、たとえようもなく。

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*脚注1

ランボーの詩は、ここにあげた金子光晴を始めとして、中原中也、小林秀雄、永井荷風といった文学の人や、粟津則雄、宇佐美斉といったフランス文学の研究者によるものなど、様々な翻訳があるんですが、翻訳というのはある意味ひとつの創作じゃないかと思っているので、ぼくは詩人が訳したものが好きです。
あと最近のものだったら、スピード感のある鈴木創士さんのも悪くないかな。

母音

Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青、母音よ、
俺はいつかおまえたちの隠れた誕生を語るだろう。
A、 耐え難い悪臭のまわりでブンブン唸る
色鮮やかな蠅たちの毛むくじゃらの黒いコルセット、

影でできた入り江よ。E、靄とテントの純真さ、
誇らしげな氷河の槍、白い王たち、散形花序の震えよ。
I、 緋色、吐き出した血、
怒り、あるいは悔悛の陶酔のなかの、美しい唇の笑いよ。

U、循環、緑がかった海原の神々しい振動、
動物の点在する荒れた遊牧地の平和、勤勉な、
広い額に錬金術が刻む皺の平和よ。

O、奇妙な鋭い響きに満ちた至上の「ラッパ」、
「諸世界」と「天使たち」のよぎる静寂よ。
— 「オメガ」、「かの人の目」の紫の光線よ!

(『ランボー全詩集』河出文庫 2010)


*脚注 2

『サントリーローヤルのランボーは企画から撮影・音楽録音・編集作業全てが緊張の連続で今でも鮮明に覚えている(高杉さんとの初仕事だったのです!)。僕の企画骨子は「ウイスキーは酔い!」。そして、最も酔いを知っている人物は芸術家だと思った。その中でもひときわ深い酔いといえば“詩人”といわれる人々を置いてはいない。
当時、ピストルズのJ・ロットンもパティースミスもインタビューの中で、ランボーの名をあげていた。パンクスの僕は「そうか、今はランボーの時代なんだ」と直感した。だからこそ、CMのコンテ化はとても音楽的に表現・・・したはずが、高杉さんの作る映像美があまりにも凄すぎて、僕の意図とは違って文学的に大いに評価化されてしまった!』

(杉山恒太郎氏のブログ「走れ、コータロー(スギヤマ) – さようなら、高杉治郎さん① 2013/9/3」より)


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