自分というキャラクターがコミュニティに依存するということ
家族といるときのクールぶった自分、友達の前にいるときの調子づいた自分、勤務先にいるときのいい人ぶった自分などなど、その場のコミュニティによって自分というキャラクターは変わっている。特に大学時代、そのことが受け入れられないというか、身体に上手く馴染まなかった。目の前にいる人に対して自分を偽っている。他者と正面から向き合わずにズルをしている。そんなふうな罪悪感とも言える感情を抱いていた。今になっては、「偽らざるを得ない自分」が情けないと思っていたのかもしれないとも思う。また、ずっと背伸びをしていると疲れるから、「本当の自分はこんなんじゃない」とどこかで叫びたかったのかもしれない。
大学生の頃、このことについて悩み、本気で人に聞いてみたことがある。自分からは誰にでもフラットに接しているように見えた人と二人で飲みに行く機会があって、その時にふと思い切って聞いてみた。その人はいろんな自分がいると言っていた。そして、そのことを肯定するでも否定するでもなかったし、「当たり前のこと」や「そういうものだよね」というふうに済ます感じでもなかったのを覚えている。(じゃあ、どんな感じだったのかというとよくわからない。)
自分と一括りに言っても、その中には様々なキャラクターがいる。そのことについてどうして悩まなくなってきたのだろうか。
まだまとまっていないので、今日はこの辺で。
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